(アメブロ支部に掲載していた記事ですが、検閲により非公開にされてしまいましたのでこちらに移動します)

2014年9月28日の夜。都内某所にてAVメーカー「V&R」が主催した、新作レズAV『生き写し美少女姉妹 甦りレズビアン――死してもなお、家族を見守り続ける美しき愛――』の試写会に参加した。

同じ日の午後には、新宿のアダルトショップ「ラムタラエピカリ」でも発売記念のイベントが催されている。当該作品の購入者を対象に、主演女優のみづなれいと有本紗世の握手会、サイン会、撮影会など様々な企画が行われたようだ。そちらにもいちおう足を運んだのだが、参加資格となる対象商品が当該作品の他はすべてスカトロ物だった上、カメラを忘れてしまったため、見合わせることにした(もっともカメラはチェキが用意されていたとのこと)。

イベントの模様はこちら→ http://togetter.com/li/725545

試写会は、事前にメールで申し込んだ希望者の中から10名ほどが抽選された。ただでさえ人気のある女優が、レズ物ということで二人も登場するとあって、50通にも上る応募があったという。会場は当選者のみに通知される形となっていたため、あえて伏せる。

午後からのイベントが盛況であったため、予定のスタート時刻より15分ほど押した頃に、みづなと有本、そして監督の白虎を始めとするV&Rのスタッフが到着。乾杯の後、備え付けのプロジェクターによる上映が始まった。

タイトルのとおり、みづなと有本が女子高生の姉妹を演じる。もっとも姉の【玲】は妹の【紗世】がちょうど生まれた頃に死に別れたという設定。以来、唯一人の肉親である病弱な母を健気に介護してきた【紗世】の前に、期間限定で霊界から帰還した【玲】が突如として現れる。

緑広がる山村のノスタルジックなロケーションも相俟って、ちょうどこの夏に劇場公開されたジブリのアニメ映画『思い出のマーニー』を彷彿とさせるハート・ウォーミングなファンタジーだ。

白虎監督は、他のメーカーで二人が共演する企画が持ち上がった際、二人の顔が似ていたことから「生き写し」というキーワードを思いついたのだという。とはいえ、同じロリ系女優であってもクール・ビューティーなみづなと、まさに“妹系”の優しい顔立ちの有本は、むしろ正反対のタイプにさえ思える。ちなみにみづなは先ごろTwitter上で年齢詐称をカミングアウトし、実年齢は30歳とのことだけれど、童顔で小柄(でも脱いだらグラマー)なため制服姿もまったく違和感がない。

本来は3時間にも及ぶ大作であるが(白虎作品はどれも大作志向だ)、会場を借りられる時間の都合でカラミのシーンをカットし、ドラマ部分のみで構成した特別編集版となっていた(ゆえに「レズAV」ではなく「レズビデオ」である)。それでも90分もある。

上映の最中は、DVDソフトのオーディオ・コメンタリーよろしく、みづなが撮影の裏話や当意即妙な“突っ込み”を入れて会場を沸かせる。

(幽霊役のみづなが初登場するシーンで)「おわかりいただけただろうか?(←言わずと知れた某心霊ドキュメンタリーの決め台詞)」

(夜間野外撮影のシーンで)「リング(ライト)当たってない!

普通(のAVの台本は)ペラ1枚なのに(本作の台本は21ページ! だったら(撮影の)前日じゃなく早く渡せっつうの!

(行為を終えたばかりの【紗世】と【玲】が全裸で睦み合っているところに母親が踏み込み、死んだはずの娘の姿を見て驚愕するシーンで)「お母さん、もっと他に気にすることあるよ!

(撮影終了近くになって)「監督、もう時間迫ってる!

みづなはフランス人形のように整った顔立ちで、声もアニメキャラのような可愛らしさであるのとは裏腹に、じつは物怖じしない姉御肌な性格。現場では後輩の有本に対してだけでなく、撮影に没頭するあまり状況が見えなくなりがちな監督をも、うまく“リード”していたようだ。上映中は腕を組んで、余裕の表情を浮かべながらも真剣に見入っている姿がサマになっていた。その“ギャップ萌え”に、きゅん、ときてしまった。

さらに、今回の上映ではカラミのパートはカットされたが、みづなはドラマ・パートでの台詞だとか、ちょっとした仕草もじつに巧い。AV女優としてだけでなく「女優」としても活躍が期待できそうだ。

一方、潤んだ瞳がいかにも母性(姉性?)本能をくすぐるであろう有本は、台詞回しの拙さを恥じているらしく、とくに自身のナレーションが入るところでは、耳まで真っ赤にしてうつむいてしまう場面も。

良くも悪くもその場の成り行きまかせのAV制作が横行する中、白虎作品は台詞や演技の細部までこだわる――台本には、有本がみづなとディープキスする際に舌をこれだけ出すという指示が、他のレズ作品からキャプチャーした画像を用いてなされていたという――過剰なまでの作り込みが特徴。監督のビジョンを明確に具現化するその手法は、むしろピンク映画やVシネマに近いと言える。

もっとも登場人物の心情やシチュエーションを、台詞やナレーション、テロップの多用によって詳細に説明することは、映画においては禁じ手とされている(加えて今回の“特別編集版”では、製品版でカラミが入っていたシーンの代わりにストーリー解説のテロップが挿入された)。観客の想像や解釈の幅を狭めてしまうというのがその理由だ。そうした教科書的なセオリーを杓子定規に当てはめるなら、たしかに白虎作品は泥臭いものに思えるかもしれない。

しかし、歌舞伎やオペラの芝居を普通のドラマに持ち込んだらおかしくなるように、AVにはAVに特化した、あるいはAVだからこそ通用する表現も、確実に存在する。

「洗練された作品」と、「惹きつけられる作品」は違う。

AV以外の表現メディア、映画や小説、マンガなどでは《表現の多義性》などと称して、まさに各々のユーザーが自分勝手に作品の意味を“想像・解釈”することが当たり前となっている。とくに女性同士の恋愛を扱った作品に関しては、そこに描かれているものはあくまでも「友情」なのだと“力説”したり、あるいは「恋愛感情」の成立を認めた上で、それは一過性のものにすぎないのだと決めつける傲慢な言説がまかり通っている。

だが、それらはじつのところ作品の評論ではない。評論の形を借りた、異性愛至上主義の行使であり「レズ」と称されるありようの人間に対してのヘイトスピーチに他ならない。

そのような“想像・解釈”の余地を、白虎監督は認めない。

クソみたいな「PC(Political Correctness 政治的正しさ)」の観念に基づく“政治的配慮”などではなく、あくまでも【己】の立ち位置から、白虎監督は「レズ」と対峙する。

そして監督が一からお膳立てした芝居の上であっても、ビデオ撮影中の限られた時間であったとしても。

みづなれいと有本紗世は本気で互いを求め合い、愛し合った、その事実を記録することに成功したなら、あとは何もいらないのだ。

誰かの受け売りではなく、私も【私】の立ち位置から、そう断言する。

写真引用元URL:
https://twitter.com/kttk0501/status/517135371532918784/photo/1

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その後、有本紗世は2015年11月に、みづなれいは2016年5月に、それぞれ引退を果たしている。

(2016年12月31日 加筆修正)