★★★

経験している最中はそうでもないのに、後で振り返ってみたとき「なんだったんだろう、あれは……?」と思うような出来事がけっこうある。

『もうひとりいる』は、そんな映画だ。

最初観たときは、とくに印象に残らなかった。佐久間信子、世那、川辺千恵子という3人の無名アイドルを主役に据えた短編映画で、彼女たちは劇中でも新人アイドルの役で登場する。

3人とも、初々しいながら一所懸命演技をしていて好感が持てた。また、欲にまみれた醜い業界人たちを内心軽蔑する少女たちが、情熱的な大人の男と出会うことで心を開いていくという筋書きも、定石ながら的を射ている。

しかし、低予算丸出しの安っぽい映像は情緒や深みとは程遠い。かといって、なにか深いメッセージを内包しているわけでもない。出来は悪くないものの、よくありがちなアイドル・ホラーといったところだった。

が、妙に引っかかる。一体なんだろう……と考えてみて、いくつか気付いたことがある。

『もうひとりいる』の舞台は、真昼の廃校。たいていの場合、ホラー映画のクライマックスは、たいてい夜間のシーンで訪れる。闇が世界を覆い尽くす「夜」というシチュエーションは、ただそれだけで恐怖を煽り立てるからだ。その意味で、この映画における恐怖表現は、あらかじめインパクトを殺がれてしまったと言える。

しかし、失敗なのかというと、そんなことはまったくない。晴れ渡る青空の下で繰り広げられる、グロテスクな殺戮。それは、さながら白昼夢のように気怠く、不条理なムードを醸し出す。ステレオタイプのホラー映画にはない、ひねくれた感覚が面白い。

また、ホラー映画の舞台と言えば、ふつう人里離れた閉鎖的な場所にあるものだが、この映画の舞台となる廃校は、なんと町の真ん中にある。逃げようと思えばいつだって逃げられそうなものだ。

ところが、校庭に出たとたん、どこからともなく「奴ら」が現れ、けっきょく校内に引き返さざるをえなくなる。開放感と閉塞感という矛盾する要素を内包した、きわめて珍しいシチュエーションだ。

「奴ら」によって全身の骨をねじ曲げられ、絶命していく登場人物たち。そのさまは、怖いというよりもマヌケだ。ヘタすれば『チェーン』のような噴飯モノの駄作になってしまいかねない(制作は『もうひとりいる』のほうが先)。

だが、上述したとおり「青空の下」「開放的な場所で」それが行われるということに意義がある。そういった穏やかなシチュエーションは、彼らの死に様の滑稽さをいっそう強調しており、まるで生命の尊厳を嘲笑っているかのようだ。

監督の柴田一成は、通常のホラー映画で良しとされる短絡的な恐怖演出を、あえて放棄した。それはカタルシスに欠けるがゆえに、逃れようのないモヤモヤした不快感を植え付ける。

その感覚を言葉に表そうとするのは、支離滅裂な悪夢の内容を他人に説明するかのようなもどかしさがある。しかし言葉で表現できないものを表現することに、映像作品の価値があることは論を俟たない。だから私は『もうひとりいる』のような作品についてこそ語ることを試みていきたいと思う。