パッケージの宣伝文によると、監督の植岡喜晴は《幻想映画だけを撮り続けて来た映像作家》で、この『精霊のささやき』は、彼にとって《初の劇場用作品》なのだそうな。

そんな奇特な人がいることも知らなかったし、そんな映画があることも知らなかった。

近所の古いレンタル・ビデオ屋ではじめて目にしたのである。昨今の、即物的なスプラッター・ホラーやゾンビ物ばかりがもてはやされる風潮に、すっかり嫌気がさしていた私は、さっそく借りてみることにした。

物語の舞台となる「ミモザ館」は、人里離れた森の奥にある、精神病患者の療養施設。

そこへ、天真爛漫な少女【ミホ】がやってくる。それぞれに心の病を抱え、自分の殻に閉じこもっていたミモザ館の住人たちが【ミホ】によって心を開いていく。

ミモザ館の女主人もまた、トラブルメーカーの【ミホ】を初めのうちは冷たく突き放すが、ストーリーが進むにつれて、包み込むような母性を発揮する。

主演のつみきみほは、名前が同じということを抜きにしても、まさに当たり役だ。ちなみにミモザ館の住人たちは、ハナ肇や植木等など、無名の新人監督の作品にしては意外に豪華なキャストを揃えている。

ミモザ館住人たちと【ミホ】の交流、そして彼らが心を開いていく様は、現実世界での具体的な出来事よりも、心情風景に重点を置いて描かれる。それこそ『精霊のささやき』が「幻想映画」たる所以なのだろう。

もっとも、いくら妄想の中で悩みを解決したところで意味がない。地に足の着いた日常とリンクしなければカタルシスは得られない。

ところが、ミモザ館住人たちと【ミホ】が初めて心を合わせてやったことは、結果として大失敗に終わってしまい、それをフォローする機会も与えられない。

いたたまれなくなった【ミホ】は失踪してしまい、その後、どういうわけだか入れ違いに同じ名前の幼女がミモザ館にやってくる。そして住人たちは、【ミホ】がやってくる前と変わらない様子で毎日を過ごす。

このオチにどういう意味があるのか、私にはさっぱりわからない。そもそも「幻想映画」なのだから、とくに深い意味はないのかもしれない。

いずれにせよ、【ミホ】は平穏なミモザ館を引っ掻き回し、住人たちに無用の混乱をもたらしただけなのである。

監督の意図がどうあれ、そうとしか解釈できない。

映像についてはどうか。

『精霊のささやき』は「幻想映画」といっても、CGや特撮を使わず、陽光や雪景色といった自然の情景を描写した。すなわち、空想の美しさではなく、現実世界の美しさを追求している。

しかし一方で、つねにタキシードやドレスを身に纏って暮らす住人たちの姿は、実写映画では滑稽にしか映らない。もし、この作品がアニメだったなら、違和感もなかっただろうか。

「幻想映画」だから現実感は必要ない、というのは詭弁である。非現実を現実に感じさせてこそ「幻想」を「映画」にする意義があるはずだ。『精霊のささやき』の「幻想」には、心躍らされるものが何もない。

げんに、住人たちが夜の森で自由に遊びまわるクライマックスも、他人と交わらず各々の世界に没頭しているだけなので、ちっとも楽しそうじゃないのだ。

『精霊のささやき』は、「幻想映画」としてどうのという以前に「映画」として駄作と言わざるをえない。