木漏れ日の差す路地裏で、ランドセルを背負った小学生が、幽霊のような女と見つめ合っている。

──『蛇女』は、こんな謎めいた光景で始まり、そして終わる。

この物語は、彷徨う女の亡霊に、運悪く捉えられてしまった少年が見せられた白昼夢なのだ。

「蛇女」というタイトルから、おのずと日本古来の怪談を連想する。げんに、アパートや研究室など、この物語の主要な舞台となる場所は、どこもかしこも薄暗く、古めかしい。

しかし、この映画の特徴は、そうした古風な舞台をモダンな手法で演出していることだ。

ひねくれたアングルで固定されたカメラが、チープな照明によって異常な色彩に変えられた世界を、淡々と映し続ける。BGMをほとんど用いず、流れる水や空調の音を強調することで、緊張感を高める。

主演の佐伯日菜子は、意図してロボットのように無感動な口調で喋り、作品全体の荒涼とした印象がいっそう強まる。

また、主人公がモデルという設定で、撮影現場のシーンが度々出てくるのも、スタイリッシュなムード作りに役立っている。

うまい具合にいけば、傑作とまではいかなくても、かなりユニークな作品に仕上がっていたことだろう。

しかし、この映画の致命的な失敗は、ストーリーがあまりにも杜撰だったことだ。

主人公は、潔癖性と呼べるほどに、自分の美しい肌に執着していた。

ある日、彼女は仕事の関係で、美容研究家と知り合う。

彼は、蛇を材料として、永遠の美を保つ薬を開発していたのだ。

「美の追求」という目的で意気投合した二人は、やがて恋仲となるが──

ここまでの粗筋を読んで、誰もが予想するのは、美しい主人公が、薬の副作用で醜い「蛇女」と化してしまう、という定石だろう。

しかし、研究家の「妹」が登場することで、作品のテーマが拡散してしまい、わけがわからなくなってしまう。

研究家とこの「妹」が密通していたという「近親相姦」の話。

嫉妬に駆られた「妹」が、執拗な嫌がらせで主人公を追いつめる「ストーカー」の話。

研究者を追う謎の男が現れる「サスペンス」。

「妹」の正体は、研究家の手によって若返った彼自身の「母親」だったというドンデン返し。

最後は、なぜか突然、主人公が発狂し、「母親」と対決するという「サイコ・ホラー」……。

文字通りの「蛇女」は、主人公が見た悪夢の中に出てくるだけで、話の筋にはまったく絡んでこない。むしろ、女の執念を「蛇」に喩えているのだろう。

ついでに言うと、この作品にはなぜか「ZOMBIE SNAKE」 という英題が付けられているけれど、ゾンビも出てこない。

おそらく、本作が小説として発表されていたら、それはそれで面白いものになったかもしれない。しかし、映画は、あくまでも映像で勝負するものだ。

この作品の場合、中盤ですでにクリーチャーを出してしまったため、以降、観客の“お楽しみ”がなくなってしまった。

とはいえ、ラスト・シーンにおける、佐伯日菜子の狂態は一見の価値がある。

もともと、のっぺりとした顔立ちが爬虫類を連想させる彼女だけに、不規則な笑い声を上げて襲いかかる様は、まさに蛇の霊が乗り移ったかのようだ。

しかし、理性を完全に放棄した佐伯の怪演と、それまで作品を統一していた“お芸術”気取りのクールな雰囲気との落差はあまりにも酷い。恐怖を覚える以前に、思わず吹き出してしまうこと必至である。

それにしても、監督の清水厚は、せっかく『エコエコアザラク(97年度テレビ版)』や『ねらわれた学園(97年度劇場版)』で育てた逸材を、「こんなこと」に使ってしまっていいのだろうか……?

また劇中では、BGMとして、メランコリックなピアノ曲『6つのグノシェンヌ 第1番』を使っている。これは知ってのとおり、エリック・サティの代表曲……というか、あまりにも使い古されていて、ちょっとクラシックをかじったことのある人間なら、よほどの必然性がないかぎり、まず起用しない曲である。

しかもあろうことか、この曲に大槻ケンヂが書いたヘンテコな詞を乗せて、佐伯日菜子自身に歌わせたものを、エンディング・テーマとして流し、あまつさえCDにして販売しているのだ(ちなみに、これが「歌手」としての佐伯日菜子のデビュー曲となる)。どうだ、このセンス。とても常人にはマネできまい。