不死の殺人鬼【タケゾウ】が、女子高生たちを血祭りに上げていく。スプラッター・ホラー・シリーズの完結編。

超能力を持つ少女【ミサト】と、その幼なじみで麻薬売買に手を染める不良少女【カオリ】。【ミサト】は【カオリ】を悪の道から救い出そうとするが、裏切り者呼ばわりされた上、【カオリ】の仲間たちに輪姦されそうになる。

泣き叫ぶ【ミサト】を、冷ややかに見下す【カオリ】。そこへ突如、【タケゾウ】が登場し、【ミサト】のピンチを救う。

じつは、【ミサト】は幼少の頃、森で迷子になったときに、【タケゾウ】と出逢っていた。二人は見えない力で惹かれ合い、何年かの時を経て再会を果たしたのだ。

【ミサト】に襲いかかる【カオリ】の仲間たちを、次々に抹殺していく【タケゾウ】。が、そのあまりの酷い殺し方に恐怖を覚えた【ミサト】は、なんとか【カオリ】だけを助けようとする。しかし【カオリ】は、【ミサト】への友情をすっかり失っていた。

傷心の【ミサト】は、【タケゾウ】と二人で旅に出る。が、男女の友情も長くは続かなかった。何世紀にも渡って孤独に生き続けた【タケゾウ】は、ようやく自分を受け入れてくれる仲間を得たことで安堵し、旅の途中で永遠の眠りにつく。

ふたたび孤独の身となった【ミサト】。彼女の旅は、始まったばかりだ──

さて、この粗筋を読むかぎりでは、感動的な物語を想像するかもしれない。しかし実際は、三流芸人レベルのヌルいギャグをメインとした、チープなコメディ仕立てとなっている。

ホームレスのような風体ながら子供の心を持ち、不良たち相手にマジメに説教を垂れる【タケゾウ】の姿は、モンスターならぬ憐れみを誘う。また、【タケゾウ】や【ミサト】の腕が、特撮アニメのロボットみたいに吹っ飛んで敵を攻撃するところからして“マトモな”スプラッター映画を作ろうとしていないことは一目瞭然だ。

おそらく、これは照れ隠しのつもりなのだろう。「ホラー」というジャンルはおうおうにして、一般的なモラルから逸脱することが良しとされる。そんな中で観客を“泣かせる”ような作品を作れば、頑迷なマニアたちから非難を浴びることは必至。コメディ化は、それを避けるための苦肉の策かもしれない。

だが、このような姑息な態度に、私は共感できない。作者自身が恥ずかしがっているような作品に、観客がどうして入れ込めるだろうか?自分の弱さをさらけだす覚悟がなければ、人の心を揺り動かす作品など生み出せない。たとえ「陳腐だ」「邪道だ」などと揶揄されようとも、作品の「在りうるべき形」を提示することこそが、クリエイターたるものの矜持ではないのか?

加えて、凡庸な演出とカメラ・ワーク、メリハリに乏しいストーリー展開が、作品全体のテンションを下げている。これでは「感動」はおろか、「恐怖」にも「笑い」にも繋がっていかない。けっきょくのところ、鑑賞に堪えうる映画を作り上げるだけの力量がないから、お寒いギャグでお茶を濁しているのでは? という疑問すら湧いてくる。

また、【ミサト】と【カオリ】がじつは同性愛の関係にあるというのも、この映画のセールス・ポイントのようだ。とはいえ実際の描写は、せいぜい妖しく見つめ合うというていどである(そういえば『富江』シリーズの『最終章』も「百合」だった)。

しかし百合要素があろうとなかろうと、この映画にとって、そんな設定は蛇足でしかない。作品のテーマやストーリーの展開に、まったく絡んでこないからだ。【カオリ】から見捨てられた【ミサト】はその後も関係性を修復できず、【タケゾウ】とつるんでばかりいる。

ただ女の子を二人出しとけば、イコール「百合」という、安直な発想には失笑を禁じえない。おまけに、タラコ唇の吉野紗香と馬面の中村愛美では、画として少々キツい。せめて片方はクセのない顔立ちにしてほしかった。