さて、『富江 最終章 ~禁断の果実~』の“オチ”をご覧になって、貴方はどう思われただろうか。

「なんだ、けっきょく【富江】が最後に選んだのは【和彦】だったのか。でも《ロリータとレズビアン》を売りにしている以上は、やっぱり【登美恵】と結ばれてほしかったな」と感じる人がいるのは無理もないことだ。

たしかに、フィクションにおいてレズビアニズムは、しばしば《異性愛の代用》という描き方をされる。ようするに思春期特有の擬似恋愛にすぎないのであって、いずれは男性を受け入れなければならず、いつまでもレズビアンのままでいることは《成熟拒否》と見做される。

『富江 最終章』もまた、そうした異性愛至上主義を追認するのだろうか?

否、である。

ここで、物語の「前提」を再確認する必要がある。

【富江】を《人間の欲望の具現体》とする解釈だ。

つまり、《【富江】が【和彦】を選んだ》のではない。

【和彦】の方が【富江】を選んだということである。

また、表面上は【富江】と訣別したかのように見える【登美恵】でさえ、じつのところは【富江】を捨ててなどいない。

【登美恵】にとっては、「ああいった形」で【富江】と結ばれることこそが理想だったにすぎない。

愛の形は一つではないのだから、相手の欲求に合わせて臨機応変に対応する必要がある。

まして、求められた「愛の形」が“人として”正しいか間違っているかなど、悪魔である【富江】にとって知ったことではないだろう。

だが、そのような形でもたらされる愛は、人を堕落させる結果にしかならない。

《人ならぬ者に恋焦がれてはならない》という教訓がここにある。

自分にとって都合の良いことしか言わない「本当の友達」として、【富江】を調教しようと目論む【登美恵】の姿は、まさしく《成熟拒否》だ。

しかし、そう見えるのは、だんじて【登美恵】が《レズビアンだから》ではない、という点にじゅうぶん留意すべきである。

相手が〈同性〉であろうと〈異性〉であろうと、【登美恵】は「他者」の存在を真の意味で受け入れることができない。彼女が本当に愛するものは自分自身のみであり、そして己の分身である【富江】を愛することもまたナルシシズムに他ならない。

だが、それを踏まえてもなお、都会へ出て【富江】を独りで養おうとした【登美恵】の決意に、偽りはないはずである。少なくとも、そこに《男にモテないからレズに“走る”》といった安っぽさはない。

それを「おままごと」と切り捨てるのは、まさに【富江】の思う壺ではないか。

【富江】が試しているのは、【登美恵】の愛であり、そして【私たち】の愛なのだ。

かくして【富江】は、【和彦】と【登美恵】、双方の願いを平等に叶えてみせた。

どちらかを捨てて片方を選ぶのでも、二股をかけるのでもない。あたかも大岡越前守の「三方一両損」を髣髴とさせる“ご名答”ではないか。

そして、そんな離れ業が可能になったのは、《富江は増殖する》という原作の設定があったからこそである。

【富江】というキャラクターの特性を活かしたあの「オチ」は、まさしく『富江』の世界観において“あるべき形”なのだ。