【登美恵】の書いた小説には、主人公が人肉を食べるというエピソードが出てくる。

そこで【富江】は、【登美恵】に問う。

「ねぇ。人の肉って、食べたことある?」

「ないよ、そんなの」

「ないのに書いてるんだ」

「富江さんは食べたことあるの?」

そう訊かれると、【富江】は意味深な微笑みを浮かべながら、

「今度食べさせてあげる」

と約束した。

日が変わり、公園で遊ぶ二人。

もっとも“遊ぶ”と言ったって、【登美恵】は自転車の後に乗った【富江】の要求に従って走り回らされているのだが、イジメっ子三人組といる時とは違い、とても楽しそうだ。

走り疲れ、原っぱに横たわる【登美恵】に、富江が歩み寄る。

「よく頑張ったから、ご褒美あげる」

【登美恵】の目を瞑らせると、その口に赤い実を運んだ。

「……なに、これ」

「どんな味?」

「ちょっと、すっぱい」

「それが、人の肉の味」

それは、柘榴の実だった。

「柘榴って、人間の味がするんだって」

ここで、『禁断の果実』というサブタイトルの意味が明らかになる。

人が人の肉を食べるという、究極の罪。

それは、「もっとも愛するものを、自らの手で破壊する」という、作品のテーマを暗示している。

【富江】は尋ねる。

「私のこと、好き?」

【登美恵】は答える。

「うん」

【富江】は、さらに問う。

「どこが好き?」

愛おしげに挙げていく【登美恵】。

「澄んだ瞳、整った顔、白い肌。それに髪も――手も、足も、指も、ぜんぶ好き。左目の下のホクロが好き」

それはあたかも、言葉によって【富江】の全身を舐め回し、味わい尽くそうとするかのようだった。

そして【富江】は、右手の人差し指を【登美恵】に差し出す。

「舐めて」

ちょっとずつ、だが丁寧に舐める【登美恵】。

その様は、【富江】の白く美しい指をペニスに見立て、フェラチオをするかのようだ。

ぎこちない舌の動きが、いかにも処女らしく、妙に生々しい。

寝そべる【富江】に体を預け、【登美恵】は、自らの胸の内を明かす。

「私、友達なんていない……富江さんだけ」

満足げに【登美恵】を抱きかかえる【富江】。

「私のお人形さん」

手をつなぎ、沈みゆく夕陽を眺める二人。

【富江】は【登美恵】に囁く。

「こんな時、ふっと死にたくならない?」

「なる」

「いつでもいっしょに死んであげるよ」

「……嬉しい」

「私、富江さんといると、いやなことぜんぶ忘れられる。ずっと一緒にいてね」

うつむいて、少し考えた後、【富江】。

「私はいるわ。ずっと、いる。あなたが生まれる前から。そして死んだ後も――」

『櫻の園』や『コンセント』など、女性を美しく描く手腕に定評のある中原監督だけに、このシーンの、美しくも退廃的なムードは、胸に迫るものがある。

『富江 最終章』は、ロリータ映画としても一級品なのだ。

また、本作を始めからもう一度見直すと、この叙情的な光景が、のちに訪れる悲劇とのコントラストを生み出しているのに気付く。

一度観たら飽きる、通り一遍のスプラッター映画などとは違って、『富江 最終章』は観るたびに味わいを増していくのだ。

 <続>