ホラー漫画家・伊藤潤二の魅力とは何か、と問われれば、あの繊細な絵柄に尽きると思う。
古風なタッチで描かれる美少女たちは、ともすればたんなる悪趣味に終始してしまうグロテスクな作風に、深い味わいを加えている。
裏を返せば、あえて「あの絵柄」を用いて、オドロオドロしい世界観を描写するというミスマッチの妙。
そこのところを理解しないと、『うずまき』の実写版みたいに、ただ奇を衒っただけの独りよがりな素人映画が出来上がってしまう。
そのような伊藤潤二のオリジナリティは、しかし「漫画」という表現形態だからこそ成立する。
実写作品だと、あの繊細なペン使いを再現することはできない。もう、その時点で、原作の最大の魅力は失われてしまう。
ましてや原作の『富江』シリーズは、基本的に一話完結である(中には連続しているエピソードもあるが)。TVドラマとして制作された『富江 アナザフェイス』のように、オムニバス形式にするならともかく、約90分の中編作品に仕上げるには間が持たない。そうなると、原作から活かせるのは基本的な設定だけで、あとの大部分を脚本家が新たに考えなくてはならなくなる。
伊藤漫画を実写化した作品が、ことごとくマニアから拒絶されているのは、上記の理由によって、良くも悪くも原作とは別物になってしまったからだ。
しかし、そんなことは観る前からわかりきっていることではないか。
伊藤潤二の世界観は、伊藤潤二本人でなければ表現できない。もし「できる」というなら、それは伊藤潤二のオリジナリティを否定することになる。
となれば、むしろ監督のオリジナリティを優先させるべきだろう。
もし、原作の世界観が損なわれるのがイヤだと言うなら、そもそも二次元の作品が三次元に置き換えられた時点で拒絶するべきなのである。ファンには「観ない」という選択だってできるのだから。
『富江』にかぎらず、原作付きの映画作品が評論される際に、いつも疑問に思うことがある。
原作者のオリジナリティを再現することは、是が非でも要求される一方で、なぜ監督のオリジナリティはないがしろにされるのだろうか。
そこには、原作を読んだことのない映画ファンの視点が、ごっそり抜け落ちている。
原作に思い入れを持つことが悪いとは言わない。しかし、それがたんなるエゴにすぎないことも自覚すべきだ。
映画監督の仕事は、優れた映画作品を世に送り出すことである。
『富江 最終章 ~禁断の果実~』は、《伊藤潤二原作の実写化作品》という以前に、《中原俊監督の映画作品》でなくてはならないはずだ。
『櫻の園』に代表される、中原監督の繊細な少女描写は、『富江 最終章』でもあますところなく味わうことができる。
また【富江】役に、原作のイメージそのままの謎めいた美少女、安藤希。
【富江】に翻弄される主人公には、『ユリイカ』で演技力を高く評価された宮崎あおいを起用するなど、女優の力量によるところもも大きい。
しかし、それだけではない。
『富江 最終章』が素晴らしいのは、伊藤潤二の原作では稚拙に感じられた設定を、完全な形で昇華させたことだ。
【富江】に魅了された者たちは、なぜか最終的には愛する【富江】を殺し、バラバラに切り刻んでしまう。
だが、そもそも伊藤潤二がそのお馴染みの筋書きを思いついたのは、たんにスプラッターな描写をしたいがための口実にすぎなかった。
原作においては、むしろ殺された【富江】がおぞましい姿で甦る様を描くことに力が注がれ、《なぜ殺すのか》という動機については、いまいち説得力に欠けていた感がある。
いちおう、理由付けはなされている。【富江】の放つ妖気が、人間の加虐願望を煽り立てるのだという。
だが、そんなものは加害者の側の手前勝手な言い分でしかない。「妖気」が目に見えないものである以上、ストーリーやキャラクター描写でそれを表現しなければ、読者を納得させることはできない。
このあたりついては、読者の側が妥協せざるをえなかった。
そこをいくと『富江 最終章』では、原作の見所であった強烈なクリーチャー描写を、あえてカットしている。
予算の都合もあるのだろうが、先述の通り、伊藤作品の魅力である繊細なタッチを三次元では再現できないという事実を考慮すれば、その判断は賢明と言える。
だが、そのかわり、主人公とその父親が「殺人」という大罪を犯すにいたるまでの心理を、丹念に描いた。
それによって《最愛の者を自らの手で殺める》という行為の重さが、いっそう観客に伝わりやすくなっている。
愛する【富江】を信頼して、彼女の仕組んだゲームに乗る少女。
一方、【富江】への愛を証明するため、自らの娘を手に掛けようとする父親。
だが【富江】は、現実を受け入れきれないがゆえに、空想や思い出といった儚いものに希望を求める、孤独な親子の心が招き寄せた悪魔だった。
【富江】を選ぶことは、すなわち、現実を放棄することである。
二人は、【富江】を殺した。
父は、非現実の世界に取り込まれることを恐れたために。
少女は、【富江】とともに死ぬことで、不快な現実から逃れようとしたために。
しかし、けっきょくはその行為すらも、【富江】への依存を強めるための“通過儀礼”にすぎなかった。
最終的にこの親子は、【富江】に人生を乗っ取られてしまう。
それは堕落であるが、同時に、救済でもあった。
このやるせない結末は、たしかに原作の直接的なグロ表現に較べたら、インパクトに欠けるかもしれない。
しかし、まるで悪夢から覚めた後のような余韻を、心に刻みつける。
それは苦しくも、どこか心地よい、蠱惑的な感覚だ。
* * *
二次元の作品を、三次元に置き換えることの困難。
しかし、その事実はけっして、映画が漫画より劣っているということを意味しない。
それどころか、二次元作品には真似できない、三次元ならではの映像表現が存在するのだ。
いったんは主人公たち親子に拒絶された【富江】だったが、ふたたび彼らの元にやってくる。
主人公は、【富江】をふたたび殺し、その死体を父と二人で彼の職場まで運んだ。
そこは製氷工場。父は氷中花を作る職人だったのだ。
大きな氷の箱に閉じこめられた美少女──。
その背徳的な死のイメージは、まさに日本の怪奇映画史上に残る名シーンと断言してしまいたい。
なぜなら、氷特有の透き通る質感は、三次元でしか表現できないものだからである。
原作に縛られる必要なんてない。
映画では、映画でしかできないことをやればいい。
伊藤潤二が漫画の持ちうる特性を最大限に引き出したのと同様、中原俊は、『櫻の園』『歯科医』『コンセント』などで培った映画人としてのキャリアを、ぞんぶんに発揮した。
映画監督という職業に、心の底から誇りを持っている人だからこそ、映画という表現形態でなしうる、もっとも美しい映像を創り出すことができたのだろう。
この「氷中花」は、大胆な発想もさることながら、安藤希を【富江】として起用したセンスの良さに、ここであらためて感嘆せざるをえない。
人間臭さをまるで感じさせない、安藤のクールな美貌は、冷たい氷と合わさることで、いっそう強調される。
また、童顔に幼児体型の安藤が、時を止められたまま、氷に閉じこめられる姿は、嗜虐的な欲情を掻き立てずにはいられない。
彫りの深い、整った顔立ちと、未熟な体つきのギャップ。
洗練された大人の雰囲気を放つ一方、どこか少女のあどけなさも残しているところが、安藤希という女優の面白さである。
《美人は三日で飽きる》という言葉があるとおり、欠点のないルックスは、印象が薄くなりがちで、女優としてはむしろ弱点となることが多い。
そこをいくと安藤希は、ステレオタイプの退屈な「美人」ではない。
本来なら互いに矛盾する性質の魅力を、安藤は内包しているのだ。
それは、あたかも妖精のような神秘性を、彼女にもたらした。
数多くのホラー映画に出演を依頼される所以でもある。
ちなみに、かく言う私は『富江 最終章』を機に安藤希という女優の存在を知ったので、「チャイドル」と呼ばれていた頃の彼女については、まったく知らない。『おはスタ』の司会をやっていた時の姿は写真でしか見たことがないのだが、「なんかバタ臭い顔だなぁ」という印象で、いまいち“萌え”なかった。成人に近づくにつれて、実年齢とルックスのバランスが、ようやく均衡するようになったということだろう。
いわゆる「チャイドル」上がりの女優の多くは、いつまでも幼い頃のイメージから脱却できず、歳を取るとなんだかチグハグになってしまう。
しかし、安藤希の場合は、大人の女としてのしなやかさや陰影を身につけることで、その表現力と美貌が、より輝きを増していった。
『富江 最終章』では、初主演作『さくや 妖怪伝』の鮮烈な印象はそのままに、いっそう深いレベルに到達した安藤希の演技力を堪能できる。
安藤のキャリアにおいて、この映画は一つのマイルストーンとなったに違いない。
そして、それは映画にとっても同じである。
これまで、菅野美穂、宝生舞、酒井美紀といった人気女優たちが演じてきた「富江」。
しかし、この『富江 最終章』において、安藤希以外の【富江】は絶対にありえない。
原作付きの映画について論じる際、「監督のオリジナリティを加えるくらいなら、はじめから原作の力など借りず、純然たる『オリジナル作品』として完成させるべきではないか」という意見が必ず出てくる。
しかし、その批判は、少なくとも『富江 最終章』には当てはまらない。
中原監督は、原作の設定を最大限に利用しながら、そこに自身の作家性、さらには役者の魅力をも加味した。
そうすることによって、原作の世界観を活かすと同時に、原作を知らない映画ファンにもじゅうぶんアピールできる内容となっている。
『富江 最終章』は、たんなる有名漫画の二次創作にとどまらない。
それ自体が、一つの「オリジナル」として独立しうるほどの強度をもっているのである。