伊藤潤二のホラー漫画に、ある種のユーモアが内在していることは、熱心なファンの間で常々指摘されてきたことだ。
伊藤作品が「ギャグ漫画」として読めるという意味ではない。
ギャグとユーモアは違う。腹を抱えて笑うようなものではなく、どこか人を食った軽妙な雰囲気を醸し出しているということだ。
ただ陰惨なだけのスプラッターではなく、そこに“可笑しさ”を取り入れることで、伊藤作品は一筋縄ではいかない、複雑な魅力を生み出している。
もっとも、グロテスクな描写とブラック・ユーモアの融合というのは、なにも伊藤潤二の専売特許ではない。御茶漬海苔や犬木加奈子といった他のホラー漫画家の作風にも当てはまることだ。ユーモアを伊藤潤二の“個性”と捉えるのは抵抗がある。
とは言え、“特徴”であることには変わりない。Higuchinsky監督が『うずまき』の実写版でやろうとして失敗したことも、まさしくそれなのだろう。私は実写版『うずまき』を「ゴミ」と認定しているが、それでも、ただのありきたりなクリーチャーものでお茶を濁すのではなく、原作のユーモア・センスに着目したセンスだけは評価できる。
さて、中原俊監督の十八番である耽美性と少女趣味を加えたことで、偏狭な原作至上主義者たちから「改悪」と蔑まれた『富江 最終章 ~禁断の果実~』。
しかし、この作品にも、原作のユーモア・センスは、しっかりと反映されている。
甦った【富江】のおぞましい造形だけに気を取られがちだが、伊藤潤二が『富江』で描こうとしたのは、そんな得体の知れないモノにすがらなければ生きていけない、人間の弱さ、哀しさ、そして滑稽さだ。
【富江】は、生首だけの姿になっても、人の心を支配し、狂わせていく。
その様は、怖いというより、むしろ“おかしい”。
『富江 最終章』でも、そのイメージは踏襲されている。
宮崎あおい演じる主人公【登美恵】が、生首だけの姿となった【富江】を世間の目から隠し、一人で育てようとする一連のエピソード。
安藤希扮する【富江】は、そんな【登美恵】に感謝するどころか、やれバッグの中は苦しいだのキャビアを喰わせろだの銀行強盗しろだの、ワガママばかり言って困らせる。
しかし、安藤希が、あの整った美貌で悪態をつくというギャップは、コケティッシュな愛らしさを生み出す。
中でも、乳母車に乗せられた富江が、おせっかいなオバサンに対して「見るんじゃねーよ」と言うシーンなんて、完全にコメディ映画のノリだ。
「ホラー・クイーン」というイメージの強い安藤だが、案外、コメディエンヌとしての素質もあるんじゃないだろうか。
一方で名バイプレイヤーの國村隼が演じた【登美恵】の父【和彦】も、寡黙なキャラクターながら【富江】とよりが戻ったとたんに特上寿司を取ったり、筋トレを始めたりして(「夜の生活」に備えているのか?)、内心はしゃいでいるのがよくわかる。
【富江】から【登美恵】を殺すよう唆されたときは、とりあえずいったん拒絶するものの、その寸前まで散々迷っているのがおかしい。最終的には、実の娘を捨てて、若い愛人を選んでしまうのだから、はっきりいって救いようのないダメ親父だ。その後、家に一人取り残された娘に電話をかけるも、けっきょく何も言い出せないというのが哀れみを誘う。
オトコってバカだよなぁ……とつぶやきつつも、同じオトコとして、私は【和彦】をなんだか憎めないのだ。