『富江 最終章 ~禁断の果実~』が「ホラー映画」であることは、まぎれもない事実だ。

美少女の頭が鉈でかち割られたり、美少女の生首が喋ったり、美少女の胴体が芋虫のような姿に変形したり、美少女の死体を氷漬けにしたり……『富江 最終章』には、観る人によってはおぞましい、気味の悪いシーンがたくさん出てくる。

むしろ、生真面目なくらい“まっとうな”ホラー映画である。

もっとも、けっして身も凍るような恐怖を前面に押し出しているわけではない。

むしろ、主演を務めた二人の美少女、安藤希と宮崎あおいという“素材”の持ち味を活かして、耽美的な《百合表現》に重点を置いている。

その点が、狭量なホラー映画マニアの目には“不真面目”に映るのだろう。

だが、ここで注意しなければならないことがある。

『富江 最終章』が示す「ホラー」は、あくまでも「怪談」の流れを汲むものである、ということだ。

「怪談」と「ホラー」は同一視されがちであるが、「ホラー」はあくまでも「怪談」の“一要素”にすぎない。

「怪談」とは、文字通り「怪奇」を描く物語全般を指し、その中には感動的な話もあれば、シュールな話、愉快な話も含まれている。たとえば、水木しげるの『ゲゲゲの鬼太郎』は妖怪漫画の古典であるが、あれを「ホラー漫画」とカテゴライズする人はいないだろう(私はむしろギャグ漫画だと思っている)。

「怪談」とは、本来であれば「ホラー」という一面のみで括ることのできない、奥の深いジャンルなのである。

「家の光 2007年7月号」内『稲川淳二のちょっといい怪談話』より引用(P33-34 刊:JAグループ(社)家の光協会):

怪談をよくジャパニーズホラーって言うでしょう? わたしはその言葉は不適切だと思うんです。ホラーというのは、恐怖でしょう。怪談というのは怖い話だけじゃない。感動する話もあれば、笑える話、考えさせられる話もあって、ほんとうにいろいろ。日本にもホラーはあるし、わたしも好きなので、それはそれでいいんですが、まったく違う文化のものをいっしょにして、怪談をジャパニーズホラーとは言ってほしくないですね。

(中略)

怪談というのは、元をたどれば不思議な話、変わった話、怖い出来事といった、ちょっと信じられないような話をごちゃ混ぜにした「怪異談」や「怪異譚」なんです。ずいぶん後になって、そのなかの怖いところだけを引っぱって「怪談」と呼ぶようになった。怪談には世界観があって、調べていくと、奥深いんですよ。

(後略)

ところが、近年のホラーの流行として《本当に怖いのは幽霊よりも生きている人間》というテーマの作品が目に付くようになってきた。『幽霊より怖い話』という身も蓋もない題名の映画もある。

幽霊や悪魔が活躍する“怪談系”のホラーはしょせん空想の産物であり、日常に根ざした「リアル」な恐怖に較べたら、どこまで行っても「御伽噺」の延長でしかないということか。

しかし「リアル」が一番だというなら、新聞の三面記事やルポタージュで事足りる。そも「恐怖」という感情を「娯楽」に加工している時点で、それはもはや「リアル」ではない。

レイプや拷問といった人権侵害を描いた作品に快感を覚えるのは、自分がその当事者でないから、すなわち自分にとって《リアルでない》からに他ならない。そんなものをいくら消費したところで、犯罪被害者の苦しみや痛みなど1グラムも共有したことにならないのだ。

《本当に怖いのは幽霊よりも生きている人間》というのは一見すると正論だが、裏を返せば作家の想像力の貧しさを露呈している。「現実」や「日常」といった有視界の事象に束縛され、そこから抜け出すことができないのである。

ホラー映画が「娯楽」であり、そして「御伽噺」である以上、やはり主役はたかが人間ごときではなく、「怪奇」であってほしい。

その意味で【富江】という「怪奇」を軸に展開する『富江 最終章』は、《「怪談」が表現しうる「ホラー」》の醍醐味を存分に発揮している。