いや、ホントわけわからんのよ、この映画。

監督が『いさなのうみ』を通して何を表現したいのか。観客にどんな印象を抱かせたいのか。それがさっぱり見えてこないから、観ている方は終始チンプンカンプンなのだ。

転校生に姿を変え、主人公に言い寄る【鯨の精(?)】は、いったい何が言いたかったんだろう。

《人間が魚を適度に捕ることによって生態系が保たれる》なんてのは、漁業学校の生徒なら授業で習うことで、わざわざ化けて出てまで言うほどのことではない。

そのくせ【鯨の精】は、漁師の息子である主人公が、漁業への情熱を語るたびに切ない表情をする。それなら始めから出てくるなよ。

しまいには「食べるモノがなくなったら私たちを食べて」って美少女の姿で言われても、なんかカニバリズムみたいで気持ち悪いし。

もちろん、そういう退廃的な内容の映画ではない。田舎の漁村を舞台にした青春映画である。

しかし、いやがるヒロインをしきりにモーテルに誘う主人公の下劣さのせいで、爽やかなムードが台無しだ。また、ヒロインが主人公に嫁ぐことを決心する過程も、まったく描かれていないので、「ラブ・ロマンス」としても楽しめない。

演出も設定も詰めが甘く、いちいち突っ込んでいたらキリがない。

一例を挙げれば、【鯨の精】の正体を知っているのは主人公だけなのに、彼女が海に飛び込んで行方不明になっても誰も騒がない。オーストラリアから転校してきたという設定なら、彼女には両親だっているはずだろう。

「妖精」という幻想的な題材と《生態系の保護》という社会的なメッセージが、うまく咀嚼できておらず、こんなみょうちくりんな駄作に仕上がってしまった。二兎を追う者一兎も得ず、といったところか。

登場人物が、ことあるごとに鯨や漁業に関する蘊蓄を垂れるのも鬱陶しい。もしかしたら『いさなのうみ』は、物語を楽しみながら漁業のことを学べるという、いわゆる「教育映画」なのだろうか。

しかし、それなら役者に方言を喋らせるべきではない。何を言っているのか不明瞭な場面が多く、聞き苦しかった。この映画が“わかりづらい”原因の一つにもなっている。

さて役者と言えば、【鯨の精(?)】を演じた馬渕英里何が印象に残る。

『ねらわれた学園(97年度テレビ版)』で、ミステリアスな生徒会長を好演した馬渕は、本作でもその独特な存在感を発揮。彼女が登場するシーンだけは、画面に心地よい緊張が走るので、かろうじて飽きずに最後まで観ていられた。