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一例を挙げるなら、安倍なつみ演じる主人公【峰岸あゆみ】が、燃えさかる倉庫に閉じこめられてしまうシーン。
彼女のクラスメートがそれに気付き、避難している他のクラスメートたちに、救助を呼びかける。
その時のやりとり。
「それ、うちのクラスの峰岸あゆみよ! 誰とも話さない変わり者!」
「峰岸って、成績のいいアノ人?」
もう、コレを見た時点で、ダメだこりゃ、と思った。
まず、登場人物の設定を、エピソードではなく、台詞で“説明”してしまう無能さ。そして、それを火事場という緊急事態でやってのける、トンチンカンな脚本。5人も(!)脚本家がいるのに何やってんだ、と言いたくなる。
また、その火事場のシーンでは、無意味なスローモーションに加え、これまた何の必然性もなくオバケが出てくるという(しかもCGで作ったむちゃくちゃショボいやつ)珍妙きわまりない演出で、緊張感を根こそぎ殺いでいる。さすがにここまでヒドいと、どうやって映画をツマラなくするかに全力を注いでいるとしか思えない。
監督の那須博之は『セーラー服百合族』や『ビーバップ・ハイスクール』で知られる大ベテランのはずなのに……なるほど、こういう映画を撮る人が『デビルマン』を作るのか。CGの使い方のヘタクソさも、このころからまったく進歩していないのがわかる。
こんなダメダメ映画でも、いちおうクライマックスらしきものはある。モー娘。演じる女生徒たちが、マラソン大会に出場する件だ。
モー娘。たちは、現実でも実際にマラソン大会に出場しており、映像はその時のものを流用した。駆けつけたモーヲタたちには、メンバーの実名ではなく、映画の役名で声援をかけさせるという小細工まで弄している。
が、モー娘。の他にも走者がいるので、トラックの中にカメラを持ち込むわけにもいかず、結果として、平坦で冗漫な映像となってしまった。
アイドル・グループのモーニング娘。が映画の中で演技をするという「アイドル映画」としてのリアリティ。アイドル・グループのモーニング娘。が実際にマラソンに挑戦するという「ドキュメンタリー」としてのリアリティ。両者に求められる「リアリティ」は、まったく性質の違うものである。
ところが那須博之監督は、アイディアを思いついただけで満足してしまい、それらを両立させるための工夫を怠ってしまった。結果、こんな見るも無惨な「スポ根もどき」が出来上がってしまったというわけだ。
ただし、モー娘。の演技は、思ったよりも違和感がない。もっとも実際のメンバーのキャラクターを反映させて劇中の登場人物を設定しているのだから、当たり前といえば当たり前だが(たとえば、グループ最年長でおばちゃんキャラの中澤裕子は、駄菓子屋の女主人。天然系の飯田圭織は、みんなの気を引くために自殺したフリをするアブない女の子、といった具合)。
そんな彼女たちが海辺の洞窟で水遊びするシーンには、当時、絶頂期にあったグループの瑞々しさが活きている。この映画の中で、唯一感心した件だ。
旬のアイドルに、無粋な作為など必要ない。ただ、その儚い輝きを引き出すことに監督は専念すべきだったのである。