ホラー漫画家・伊藤潤二を評する言葉といえば「天才」「鬼才」「孤高」などが挙げられるだろう。
私はそれらに異議を唱える者ではない。だが、そうした賛辞がかならずしも伊藤作品の“無謬性”を意味しないことは指摘しておかなければならない。
否、むしろ伊藤は《欠点を個性に変える作家》と言える。
『富江』単行本あとがきより引用(朝日ソノラマ 249ページ):
ところで富江の細胞が増殖して、その個体数が増えるというアイデアはあまり自慢できるものではありません。なぜならこれは、私の尊敬する梅図かずお先生がすでに同様のテーマで描いておられるからです。
富江シリーズに独自のものがあるとすれば、それは男達が無意識に富江を増殖させてしまうという所でしょう。これは当時第1作を読んだ職場の先輩Hさんから富江殺害に級友全員が加わる理由付けが弱いと指摘され、それを受けて考えた苦しまぎれの設定です。そんな行き当たりばったりの状況で描き継いだ本シリーズは無理の多い稚拙なものですが、しかしこれがなかったら、おそらく今日まで漫画を続けられなかったかも知れず、私にとっては大切なものとなりました。
『富江』は、緻密に構成された作品では、けっしてない。むしろ、作者自身が述懐しているとおり《行き当たりばったりの状況で描き継いだ》《無理の多い稚拙なもの》である。
しかし、そういった衝動的ともいえる作風が、混沌とした雰囲気を醸し出し、結果、ホラー漫画としての緊張感を高めているのだ。
さて、そんな『富江』を映画化する場合、はたして「欠点」までも忠実に再現する必要があるだろうか?
たしかに、『富江』にとって、上述した「欠点」は必要不可欠な要素だ。
しかし、見方を変えれば、伊藤潤二の描く『富江』という作品の中だからこそ、それが「魅力」として機能しうるとも言える。
欠点が「ある」から、良いのではない。欠点をも魅力に“変えてしまう”ところに、原作の価値がある。
すなわち、欠点も魅力も、それぞれ独立して存在しうるものではない。他の要素と関連した上でこそ、役割を果たせるものなのだ。
ゆえに、作品を構成する一要素だけを取り出してみても、作品を語ったことにはならない。それらが作品の中で、どのような役割を担っているのかを考慮する必要がある。
映画監督に要求されることは、「優れた映画」を撮ることだ。
原作の「欠点」をもバカの一つ覚えのように受け売りしたところで、それは必ずしも「魅力」として機能しない。
ただ、「出来損ないの映画」が生まれるだけである。
ましてや、映画を観にいく客は、かならずしも原作の熱心なファンばかりではないのだ。彼らに対して、「原作に忠実だから」などと釈明をしたところで、なんのフォローにもならない。
それはすなわち、原作から独立できていない、「不完全な作品」という意味になるからだ。
もっとも、原作に過剰な思い入れを持つマニアたちが、原作の「欠点」に固執する理由はわかる。
赤の他人の手で「完全無欠の作品」ができてしまったら、原作の存在価値がなくなってしまう、と心配しているのだろう。
しかし、そのような心配は無用である。「欠点」が補完された時点で、それは原作とは別のものなってしまうのだから。
中原俊監督は『富江』の実写映画化にあたり、男女二人の主人公【登美恵】と【和彦】が、それぞれの動機で【富江】を殺すにいたる過程を丹念に描いた。
こうして、原作では稚拙に感じられた人物描写が説得力を持ち、物語の世界をより生々しく実感できる。
ただし、原作の「欠点」がなくなったかわりに、それが転じたことによって生まれた、不条理なパワーも失ってしまった。そこに物足りなさを感じてしまう原作ファンも少なからずいることだろう。
しかし、あえて原作の「魅力」を犠牲にしたことによって『富江 最終章 ~禁断の果実~』は、伊藤潤二の世界観とはまったく別の個性をもつ作品となった。
そのことによって、逆説的に、原作の特異性を強調する結果となっている。
実際、『富江 最終章』には、ブラック・ユーモアやキッチュな感覚、そして何より安藤希が体現した【富江】の超常的な美しさなど、原作の「魅力」を忠実に継承している部分も多い。
中原監督の作家性が色濃く出た作品ではあるものの、けっして原作の世界観を無視しているわけではないのだ。
いくら原作だけを熱心に読み耽っても、その真価を理解することはできない。
《伊藤潤二でないもの》があるからこそ、伊藤潤二は伊藤潤二たりうるのだ。
原作は、二つといらない。
《原作の模造品》ではなく、《新たな原作》を作るべきである。
* * *
最後に「CINEMA TOPICS ONLINE」より、2002年6月29日、東京の「銀座シネパトス」で行なわれた『富江 最終章』公開初日イベントのレポートから、伊藤潤二のコメントを引用しよう:
全くのオリジナル・ストーリーとして製作された『富江 最終章~禁断の果実~』だが、「『富江』は題材的に、女優さんの美しさが大事なんで、4作目はその点でもとてもいい映画」と伊藤氏はその出来栄えにはかなり満足している様子。「脚本家の方が才能があって、ビジュアル的にも面白いアイデアを出されている。氷柱花は、僕も原作で描きたかったなってくらいでね。富江というのは観賞用の生き物って感じなんで、それを一番如実に表しているエピソードですね」。他にもこれまで原作では、富江に翻弄される男のキャラは多数登場させてきたが、登美恵のようないじめらっことしての少女キャラを登場させたことがなく、そうした部分を含め本作の脚本には「ヤラレタ!」と思わせられた部分が多いそうだ。二人のトミエに扮したに女優も「希さんの富江は切れ長の目などルックスが原作通りで美しく、宮崎さんもとても可愛らしい」とベタ誉めだ。
現在原作マンガの方は、しばらく休止中とのこと。「描き尽くしちゃったかな…というのがあって、暫くは似たような話しかかけないかなというのがあって。アイデアが出れば描きたいとは思ってますよ」。一方、映画版に関しては、既に原作者の手を離れたスタンスなので、様々なキャラクターによる多くの『富江』が描かれるのが一番だと考えているとのこと。「ドンドン、綺麗な富江をスクリーンに登場させてくれたらいいですね」と今後に思いを寄せる伊藤氏。勿論、伊藤氏の新作マンガも楽しみだが、キャラクター同様に増殖を続ける映画版『富江』シリーズの今後の展開にも、期待大だね。
2020年2月14日追記:現在「CINEMA TOPICS ONLINE」は「CINEMATOPICS」に移行した模様ですが、上掲記事は削除されてしまったのか、いくら検索しても出てきません。