『富江 最終章 ~禁断の果実~』の監督・中原俊は、過去にレズビアン・ポルノの名作『猫のように』を手掛けたことで知られるが、そこをいくと『富江 最終章』に女優の裸や濡れ場はいっさい登場しない。
露悪的な趣向が持て囃されるホラー映画において、ある意味“清く正しい”プラトニック・ラブを追求することは、表現として軟弱と見なされてしまう。マニアたちがこの映画を酷評する理由はそこにある。
だがレズビアンをポルノのイメージと結びつけることは、そのじつレズビアンに対する偏見の表れにすぎない。
むしろ《直接的なエロ描写》をあえて回避したことで『富江 最終章』にいかなる効果をもたらしたのか? ということについて考えてみる方が、そも映画評論のあり方として建設的であるように思える。
物語の序盤、イジメっ子3人組が、パンを買いに走らせている【登美恵】を待ちながら、下品な噂話をするシーンがある。
「……ねぇ、そんで残った男はどうなったの?」
「その女と付き合った1週間後に、狂って死んだんだって」
「こわ~、魔性のオンナじゃん」
「その話、何かに似てない? 観たら1週間後に死ぬビデオ」
「あー、そんじゃその女……『貞子』だ!」
「ってゆーかその女、他の男も誘ってたんでしょ? それじゃあサダコじゃなくて『サセコ』じゃん」
この会話は、25年前、【和彦】の親友【田島】が、【富江】を“モノにした”直後に自殺した事件を指していると思われる。まさか自分たちがイジメている少女の父親が、この話の当事者であるなどと彼女たちは知る由もないだろうが、都市伝説とは、こういった形で一人歩きしてしまうものなのだ。
さて、なぜここでこの会話を引用したのかというと、【富江】のように自由奔放な愛を謳歌する者に対する世間の認識が、端的に表れているからである。
「究極の悪」の行使者であり、ひたすら快楽を貪らんとする【富江】なら、おそらくSEXにも長けているのではないか――と安易に考えてしまいがちだ。
しかし、なりふり構わず色に溺れるのであれば、それはイジメっ子の言うとおり「サセコ」と変わらない。
【富江】のような絶世の美少女とSEXできて喜ぶのは、【富江】本人より、むしろその相手の方だろう。
【富江】は、あくまでも人智を超越した存在なのだ。浅ましい人間ごときに肉体を許してしまうことは、己を俗世間のレベルにまで貶めてしまうことになる。
だから、私は思う――【富江】は、処女なのではないかと。
【田島】が【富江】と仲違いした理由は、わからない。だが、【富江】曰く《強引だった》という【田島】は、おそらく力づくで【富江】の肉体を求めたのではないか。そして当然のごとく拒絶され、絶望のあまり【富江】をメッタ刺しにした後、自らも首を吊る。その後、息を吹き返した【富江】は、一人アパートを抜け出し、以降、行方をくらませた――。
これが「25年前の事件」の真相ではないだろうか。
しかし見方を変えると、【富江】がもたらす愛は、彼女を愛するすべての人にとって平等だということでもある。
しばしば《【富江】は【和彦】に近づくために【登美恵】を利用した》といった解釈を目にするが、それは疑わしい。
ただ【和彦】を誘惑したいだけなら、わざわざ【登美恵】に言い寄り、あんな手の込んだ芝居をうつ必要はない。
【富江】は、二人を“平等に”愛していた。だからこそ、二人に別々の役割を与え、その「究極の愛」を全うさせようとしたのである。
* * *
人の心を弄びながら、自らを貶めることのない【富江】は、永遠に純潔を保ったままでいるのだろう。
そんな【富江】の神秘性を象徴するのが、この映画のハイライトである「氷中花」のシーン。
【和彦】によって氷漬けにされたときも、【富江】は服を着たままだ。
正直、私が最初にこのシーンを観たとき、思い切って安藤希を丸裸にしてしまえば、観客への絶好のサービスとなったのに、と思った。もっとも、いくら映画のためとは言え、売り出し中のアイドルに、オールヌードを披露させるわけにはいかなかったのかな、と。
しかし、後から振り返ってみると、それがあまりにも浅ましい考えだと恥じた。
こんなところで唐突に露骨なエロを出したら、これまで作品が保ってきた、淡く幻想的な雰囲気が台無しになってしまう。
むしろ“あえて脱がさない”ことによって、昇りつめる寸前の緊張感を、作品にもたらしているのだ。
この、あえてすべてを見せないことで観客を焦らすという手法が、『富江 最終章』ならではのエロス表現だ。
あからさまにSEXを描いていないからといって、毒にも薬にもならないカマトトぶった作品なのかと言えば、むしろその逆なのである。
たとえば、【富江】と【登美恵】が夕暮れの草むらに横たわるシーン。
【富江】が差し出した人差し指を、【登美恵】は少し恥ずかしそうに、それでいて丁寧に舐める。
その仕草は、あたかも初めてフェラチオをするかのようだ。
いかにも処女らしいぎこちない舌づかいが、妙に生々しくて、そそられる。
また、切り落とされた【富江】の生首の断面を、【登美恵】が興味深く眺めるシーン。
そのとき、【富江】は恥ずかしそうに「じろじろ見ないでよ」とたしなめる。
あたかも、自分の陰部を覗き見られているかのようなニュアンスだ。
裸体や性交を直接映さず、それに代わるものによって連想させることで、観客の感性を刺激する。
それは「誤魔化し」でもなければ「手抜き」でもない。
型にはまったエロ描写にはない、よりユニークで、かつ効果的なイメージを生み出すことができるのだ。
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さて、けっきょく肉体関係をもたないまま別れてしまう【富江】と【登美恵】の「百合関係」は、プラトニックなものに終始したと言える。
最後まで互いを「友達」と呼び合うのは、二人がその意味で“一線を越えていない”ことの表れであろう。
だとすれば、二人の間柄を言い表すのに「百合(同性愛)」という言葉を用いるのは、不適切なのだろうか。
ここで【富江】の存在が、人間の内なる欲望の投影であることを確認したい。
異性・同性に関わらず、他者と健全な人間関係を構築できない【登美恵】であっても、人並みに恋愛への憧れはあるだろう。しかしそれは恋愛に付随する濃密な人間関係、さらには肉体関係に対する不安と表裏一体だ。
そうした【登美恵】の心情に寄り添い、かつ籠絡するにあたっては《友達以上恋人未満》の距離感を保つことがもっとも効果的と考えられる。
だが、それはあくまでも形だけだ。【富江】と【登美恵】の間に流れる感情までも規定するものではない。
あの夕暮れの公園における、ロマンティックな会話や淫靡なやりとりからすれば、やはり「友情」の枠組みに押し込めることはできない。
差し出した指をペニスに見立てて「フェラチオ」させる、そしてそれに喜んで応じるなどということは、互いをエロスの対象として認め合っていなければ成立しえない行為だ。
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ところで、ゼロ年代前半のオタク・カルチャーにおいては、今野緒雪のライトノベル・シリーズ『マリア様がみてる』(集英社)のやや遅まきなヒットにより「百合ブーム」なるムーブメントが発生していた。
もっとも80年代から独自にレズビアニズムを追求してきた中原監督にとって、そのような流行はどこ吹く風といったところかもしれない。しかし、女性キャラクター同士の直接的な性表現を避け、プラトニックな精神性に重きを置くゼロ年代「百合ブーム」の風潮は、図らずしも『富江 最終章』の表現手法と志向を同じくする。
そう考えれば、【富江】と【登美恵】の馴れ初めの際、【富江】が【登美恵】の首にロザリオを掛ける件が『マリみて』で「スール(姉妹)の契り」を交わす際に行なわれるロザリオの授受を髣髴とさせるのも特筆すべきポイントだ。