【富江】は、【登美恵】の初恋の人であるとともに、作家を志す【登美恵】の書いた小説を読んだ、初めての読者でもあった。

「じゃあ、初めての読者に、コーヒー淹れて」

嬉しそうに応じる【登美恵】。ベッドに寝そべって読み耽る【富江】に、【登美恵】はコーヒーを差し出す。

ちなみにこのシーンでは、寝そべる【富江】を足の方から上に向かって接写していくという、官能的なカメラ・ワークが楽しめる。【富江】を演じる安藤希の足は、無駄な肉の付いていない引き締まったシェイプで、見るたびにゾクゾクしてしまう。あぁ、ああいう足に踏みつけられてみたい、と思ってしまう私は、やはり「そうとうのヘンタイ」であろうか……。

だが、何事にも本物志向の【富江は、一口飲むと、それがインスタントであることを理由に、もう口を付けない。【登美恵】は、近所のスーパーまでわざわざ豆を買いに行くはめになる。

【富江】と【登美恵】の、このさりげないやり取りは、【富江】が物事の真贋を見極めることのできる鋭敏な感性を持った人物だということを物語っている――と私は解釈した。

でなければ、わざわざこんなシーンを入れる必然性がない。

一見すると、何気ない日常の一齣に思える、この件。しかし、こうしたともすれば見過ごされがちなエピソードにこそ、じつは作品にとって重要な意味が込められているのだ。

もちろん、何の意味もない場合だってある。そちらのほうが、はるかに多いかもしれない。

はたして私の解釈は、深読みのしすぎだろうか?

しかし、いずれにせよ“読み取ろう”とする意思をもつことは必要だ。

なぜなら、作者が自身の作品を“理解”しているとはかぎらない。作品を“作る”能力と“論じる”能力は、まったくの別物なのだから。

たとえば、橋本家に遊びに来た【富江】が、【登美恵】の書いた小説を読んだときの会話。

小説の主人公【アン】が【マリー】の家を訪れ、美味しいシチューをご馳走になるというエピソードについて。

富江「それって恋人の肉だよね?」

登美恵「どうしてわかったの?」

富江「だって殺したじゃない」

登美恵「そう。困って、シチューにしちゃったの」

富江「困ったんじゃないよ。愛してたから、食べたかったんだよ」

登美恵「……富江さん、すごーい」

【富江】は、作者の【登美恵】でさえ気付かなかった視点を提示することで、物語の世界をいっそう豊かなものにした。

読者が存在することによって作品に生命が吹き込まれる、まさにその瞬間を描いた、感動的なエピソードだ。

人間の思考において、知覚・認識できる部分など氷山の一角にすぎない。残りの大部分は、無意識の領域に潜在している。ゆえに表現者は、あらかじめ自分の表現したい物事を“理解”した上で表現するのではない。否、それどころか【登美恵】のように、作品という形にしてみてから、はじめて気付かされることもある。

だから私たちは、目に見えない部分にこそ、あえて目を向ける必要があるのだ。

価値ある評論とは、誤解を避けることではない。作品の中から、より有益な価値を拾い上げることであると、私は考える。