世間の頑迷な性規範に囚われることなく、悪びれることなく二股をかけ、さらには「親子どんぶり」までも美味しくいただく。本能の赴くまま生きる、タフで先進的な女性――『富江最終章考:ロリータとレズビアン(5)』の中で【富江】の人物造形を端的に言い表したものである。
そして、そのようなファム・ファタール的なキャラクターを華奢で清楚なイメージの安藤希が演じるというギャップ。
この意外な、しかし絶妙なキャスティングによって、【富江】というキャラクターに、一筋縄ではいかない複雑な魅力が加わった。
もちろん、役者の技量やセンスが追いつかなければ、ミスキャストに終わる危険だってある。だが安藤は、期待以上の芝居を魅せてくれた。
無駄な感情を排した表情は、欲望に翻弄され自滅していく人間たちを見つめる、【富江】の冷酷な眼差しを見事に表現した。
加えて、甘く、深みのある声質に、力みの抜けた、物憂げな発声があいまって、あたかもチョコレート・ボンボンのように耳を酔わせる。
だが、それでいて活舌はとてもなめらかなので、舌足らずな印象は受けない。「チャイドル」時代に開花したアイドル性と、『さくや妖怪伝』以降に培った役者としての表現力が、理想的なバランスで折衷している。
(なお自画自賛で申し訳ないが、この「チョコレート・ボンボン」という表現、個人的には気に入っている。「芳醇なワインのような……」などという陳腐な表現では当てはまらない。少女のあどけなさと、大人の女の色香を同時に醸し出す、安藤希という女優にピッタリの言葉だと思う)
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さて、映画評論家・鷲巣義明によるインタビューの中で、監督の中原俊は主演女優たちへの演技指導について次のように語っている。
『宇宙船』Vol.101(朝日ソノラマ)より ※鷲巣義明の単行本『恐怖の映画術』(キネマ旬報社)にも再録:
印象を一言でいうと、安藤くんには「根性」があり、宮崎くんには「才能」がある。安藤くんにはちょっと古臭いイメージの芝居をしてもらったけど、宮崎くんには生まれついての独特の雰囲気があり、それを生かしてあまり芝居をつけないようにしました。
もっとも、たとえ監督が女優に《ちょっと古臭いイメージの芝居》を要求したとしても、女優の側がそれをどのように解釈するかは、まさしく十人十色だ。
中原監督は《安藤くんには「根性」があり、宮崎くんには「才能」がある》と語っているが、それはけっして安藤希に「才能」がないという意味ではないはずである。
こんな言わずもがななことをいちいち書かなくてはならないのは、一時期、スノッブな映画オタクの間で宮崎あおいをやたらと持ち上げるのがステータスになっていたことがあり、その流れで、安藤希の演技力を不当に酷評する向きがあったからだ。
しかし中原監督の発言を虚心坦懐に読み解くなら、ただ安藤希は、宮崎あおいとはまったく種類の違う「才能」をもっているということにすぎない。両者を比較して“格付け”をするなどというのは、評論の本質からかけはなれた、むしろ週刊誌のゴシップ記事に近いナンセンスな発想である。
宮崎が、どのような作品に出演しても共通して同じ「色」を発揮するのに対し、安藤は「無色透明」。監督の描く理想に応じて、思いのままに変化させることができるのだ。
そして、そんな両者の個性を見抜き、各々にとって最良の演技指導を施した、中原監督の手腕に脱帽せざるをえない。