「ホラー映画」というジャンルは、つくづく窮屈だなと痛感する。

怖いか、怖くないか。そんな一面的な基準だけで、作品の存在価値が決定されてしまう。

ストイックに「ホラー」を追求した作品が悪いとは言わない。ホラー映画に手を伸ばす人の多くは、遊園地のお化け屋敷に入るのと同じ感覚なのだろうから。

しかし、「ホラー」を描いた映画が、かならずしも字義通りの《怖い映画》になるとはかぎらない。

ホラーという概念の解釈は、監督にとって十人十色だ。言葉の定義にこだわりすぎると、ジャンルの可能性や多様性を狭めてしまう危険がある。

たしかに《怖いか/怖くないか》という基準で計るとすれば、『富江 最終章 ~禁断の果実~』は“怖くない”かもしれない。

切断された【富江】の生首が喋ったり、その胴体が虫のような姿になるといった、不気味なシーンもあるにはあるが、それは“怖い”というより、むしろ“不思議”という感覚に近い。漫画チックにディフォルメされた造形や、【富江】役の安藤希の愛らしさも手伝って、駄菓子屋で売ってるオモチャみたいにキッチュな味を出している。

しかし、“怖くない”ことは、必ずしも良心的であるとか、素人向けであるとか、はたまた表現として軟弱であるということを意味しない。

『富江 最終章』を観て、“怖くない”とか、はたまた“エロくない”とか、小学生でもできる印象批評をして済ませてしまうのは容易い。

しかし、なぜこの映画はこのような作りになっているのだろうか。そこまで想いを馳せないかぎり、いくら評者本人にとっては“批評”のつもりでも、そのじつ、趣味の主張にしかなっていないのである。

たしかに、フィルム上において、露骨な恐怖やエロスは描かれていない。その意味で『富江 最終章』は“わかりづらい”映画と言える。

しかし、この作品にとって、本当に表現すべきテーマは、まったく別のものだ。

ホラー映画という形式も、中原監督自身が提唱した《ロリータとレズビアン》というキーワードも、そして伊藤潤二の原作すらも、ようはそれをコーティングするための塗料にすぎない。

どんなに恐ろしい毒薬でも、ただ放置されているだけなら害にはならない。体内に取り込まれてこそ、毒は「毒」たりうる。

ホラー映画マニアがもてはやすような、いかにもオドロオドロしくスプラッターな演出は、たしかに“わかりやすい”。

とはいえ、「毒」としては、ある意味、良心的だ。実際に観る前から拒絶することもできるし、観てしまったとしても、あまりに不快な気分を味わってしまうと、もう二度と観たいとは思わない。

しかし、ここで注意しなくてはならないのが、そうした不快感は、「毒」自体の効力ではなく、その表面に塗られたコーティングの味なのではないか、ということだ。口に含んだとたん、もしヘンな味がしたら、呑み込む前に吐き出すことができる。それでは、毒として役に立たないのである。

それでは、もっとも恐ろしい毒とは何か。甘い匂いと味で犠牲者を酔わせながら、徐々にその生命を蝕んでいくものである。気が付いたときには、もう手遅れ。犠牲者には、毒を「毒」として認識することすら許されない。

しかるに、『富江 最終章』が内包する「毒」。すなわち、テーマとは何か。

それは、「究極の悪」である。

<続>