郊外の町に、高校生の娘と二人で暮らす中年の工員【和彦】。

ある日、彼の前に、若かりしころ憧れていた美少女【富江】が、その当時のままの姿で現れる。

かつて内気な【和彦】は、【富江】に片想いをしていたが、想いを打ち明けられないまま、親友に取られてしまった。

しかし、その親友は謎の自殺を遂げ、【富江】も失踪してしまう。

それでも、【和彦】は【富江】への想いを捨てきれず、実の娘に「登美恵(とみえ)」という名前までつけるほどだった。

あの頃に戻って、もう一度愛を育もうと誘う【富江】。

だが、【富江】の正体は悪魔だった。

その美貌で人間の心の弱さにつけいり、弄び、ついには破滅させることで喜びを見いだす、真性のサディストだったのだ。

そして【富江】はバイセクシュアルであった。

【和彦】に言い寄る一方で、娘の【登美恵】も誘惑していたのだ。

内気な性格ゆえ、学校でイジメを受けていた【登美恵】。彼女は、耽美と幻想の世界を夢見ることで、惨めな日常から逃避していた。

そんな【登美恵】の前に現れた【富江】は、まさに彼女が思い描いていた理想の女性だった。

端麗な顔立ち。白い肌。物怖じしない積極的な性格。【富江】は、【登美恵】が求めながらも得られなかったすべてを持っていた。

たちまち【登美恵】は、【富江】の虜となってしまう。

だから、【富江】に目隠しされ、ベッドに両手を縛り付けられても、なんの抵抗もできなかったのだ。

そして【富江】は、【和彦】に、実の娘を殺すよう唆す。

【和彦】の初恋をやり直すためには、【登美恵】の存在が邪魔なのだという。

「あの頃に帰りたいんでしょ? あの頃、あなたに子供なんていなかったわ。初恋、やり直したくないの?」

* * *

よく誤解されがちだが、【富江】は、けっして【和彦】に近づくために【登美恵】を“利用”したわけではない。

むしろ、【和彦】の潜在意識が、【富江】を引き寄せたのである。

学校ではイジメられっ子の【登美恵】だったが、家庭では暴君のように振る舞っていた。

妻と死に別れてからというもの、男手一つで育ててきたというのに、娘は自分に感謝しないどころか、邪魔者扱いをする。

そんなときに現れた【富江】は、【和彦】が心の内に秘めていた、娘への憎しみを具現化した存在でもあったのだ。

だが同時に【富江】は、【登美恵】にとっての理想でもある。

【富江】は、【富江】なりのやり方で、【登美恵】を愛していた。

【登美恵】に小説家の才能を見いだし、彼女が描く世界を、一緒に実現しようとした。

夕暮れの公園で、二人並んで柘榴の実を食べたとき、富江が放った「いつでもいっしょに死んであげるよ」という台詞が、とても出任せであるようには思えない。

でなければ、あのシーンを、あれほどまで叙情的に演出する必然性がない。

そんな【富江】が、【登美恵】のことを疎んじ、【和彦】をけしかけて殺そうとするのは、一見すると矛盾しているように思える。

しかし、この矛盾は「間違い」ではない。

むしろ、矛盾しているからこそ、リアルなのだ。

年下の恋人を愛おしく思う反面、付き合いが深まるにつれ、最初のうちはなんとか我慢できた欠点が鼻につくようになると、もうそこで【富江】は、【登美恵】を見捨ててしまう。遊び飽きた玩具を捨てる子供と同じ感覚だ。

そこに【富江】の孤独がある。【富江】は《永遠不変の愛》を求めるロマンチストでもあるのだ。

もちろん、そんな子供じみた理想が満たされることはない。こうして【富江】は、永遠にこの世を流離(さすら)うはめになる。

だが、物言わぬ玩具と違って、捨てられた人間は「そうですか、さようなら」と引き下がることなどできない。

いっそう、【富江】への執着を増していく。

そしてついには、【富江】の命を奪うことで、その魂を独占しようとする。

しかし、実際に支配されてしまったのは、彼(女)自身のほうなのだ。

おのが欲望に食い尽くされ、醜いバケモノと化した人間の心を見て、【富江】は自らのナルシシズムを保ち、束の間の充足感を得る。

* * *

【富江】は、【和彦】と【登美恵】にゲームを挑んだ。

【和彦】は、自らの一人娘を手に掛けることによって。

そして【登美恵】は、何の疑いも抱かないまま殺されることで。

【富江】への愛が本物であることを証明するのだ。

人間が行う「悪」で、もっとも深く、重いものはなにか。

たとえば、この映画には「悪」のステレオタイプが登場する。

【登美恵】のクラスメートの、イジメっ子3人組である。

彼女らを演じた、藤本由佳・二宮綾香・太田千晶らの憎々しい芝居は、とても芝居でやっている とは思えないくらいにリアルだ。【登美恵】をパシリに使い、金をせびり、木に縛り付けてボーガンの的にしたりして弄ぶさまは、過去にイジメられた経験のある人や、一度でも「ヤンキー」にイヤな思いをさせられたことのある人なら、見ているだけで胸糞が悪くなるに違いない。

役者としての“あるべき姿”とは、その作品の空気に染まり、与えられた役割を体現できるということだ。脇役である彼女らの存在もまた、『富江 最終章』の世界を支える柱の一つなのだ。

とはいえ美学の観点に基づくならば、彼女らの「悪」は、きわめて低レベルなものと言わざるをえない。

あるいは、シリーズ1作目で菅野美穂が演じた【富江】のように、生きたゴキブリを素手で掴んで「ばんごは~ん」などと迫るのも、しょせん陳腐なコケオドシにすぎない。

ホンモノのワルは、絶対に自分の手を汚さない。

すなわち、究極の悪とは、他人に悪を行わせること。

そして、もう一つ――自分のもっとも愛するものを、自らの手で破壊することである。

それは最悪の罪であるが、同時に、最高の贅沢でもある。

そこらへんに転がってるゴミを壊したって意味がない。

もう二度と手に入らない、価値あるものを壊してこそ、満足が得られる。

こうして【富江】もまた、「観客」ではなく「プレイヤー」として、ゲームに参戦するのだ。

* * *

そして、本作で【富江】を演じた安藤希は、まさに「究極の悪」を体現するにふさわしい女優である。

そもそも、「良い演技」の定義とは何か。

滑舌、声の抑揚、表情の変化……しかし、それらはただの技術にすぎない。

そして皮肉にも、その技術が、時として演技を殺してしまうのだ。

「演技」とは、すなわち“客を騙す”ことである。

観客に“演じている”とばれてしまう演技は、へたくそな演技なのである。

いわゆる「臭い芝居」というやつだ。

その意味で、『富江』の菅野美穂や『富江 rebirth』の酒井美紀は“臭かった”。

ああやって、仰々しく目を見開き、オドロオドロしく声音を作る芝居は、コントでやってるなら笑えるが、シリアスな物語の中では浮いてしまう。わざとらしさ、あざとさ、ぎこちなさばかりが際立ち、観ていて不快このうえなかった。

「恐怖」と「不快」は違う。演技の技術をひけらかすことが「巧い演技」だというなら、彼女らを誉める人もあるだろうが、「巧い演技」はイコール「良い演技」ではない。もっとも責任のすべては、菅野と酒井の演技力を活かすことができなかった無能な監督にあるのだが。

そこをいくと安藤希は、「演技のための演技」を一切やっていない。

いや、もちろん安藤に演技力がないという意味ではない。

“演技している”ことを、まるで感じさせないのだ。

安藤は、目を見開くこともなければ、声音を作ることもないし、ゴキブリを素手で掴んだりもしない。

安藤希が体現するものは、技術ではない。

「世界」だ。

少女に愛を囁いたとき、公園を包み込んだ夕陽の、胸に迫る美しさ。

愛する男を邪道に誘う夜、底知れず広がる暗黒の狂気──。

安藤は、自分の内側をいったんすべて空っぽにして、「そこ」にある空気で満たす。

台本に書かれていることを自分勝手に解釈するのではない。いっさいのエゴを捨て、監督の創り出そうとする世界とシンクロし、それを形にしてみせる。

そんな安藤の特性は、他の役者と並んだとき、さらに顕著となる。

【登美恵】を演じた宮崎あおい、【和彦】を演じた國村隼。二人の演技は、日常に深く根を下ろしたものだ。

朝、【登美恵】が学校へ行く前、亡き母の仏前に線香を供える仕草。【和彦】と交わす、「今晩もカレーでいいでしょ?」というやりとり。その一つ一つが、まるで目の前で起こっているかのように生々しい。

対する安藤希には、宮崎と國村の放つ生活のにおいや生命の温度が、いっさい感じられない。

それはあたかも、ピカピカに磨き上げられ、一点の曇りもない鏡のようだ。

そして、そこに映し出されるのは、自らの心の闇に浸食されていく親子の、切実な孤独感である。

【富江】の魔性の根元とは、すなわち、二人の抱える闇の深さにほかならない。

日常と非日常のコントラスト──『富江 最終章』の要となるこの概念は、まったく正反対の性質を持つ役者たちだからこそ、あれほどまでリアルに実現することができた。

安藤希、宮崎あおい、そして國村隼。この3人の主役のうち、誰か一人でも外したとしたら、『富江 最終章』はたちまち輝きを失ってしまうのである。

* * *

さて【和彦】は、さんざん迷った挙げ句、ようやく【富江】のおぞましき本性とその謀略に気付いた。

25年にわたって恋い焦がれた美少女の正体は、人を破滅へと誘う悪魔だった。

家庭を築いてからも彼女を忘れられず、自分の娘に同じ名前まで付けてしまった【和彦】の一途な想いも、当の【富江】からしてみれば、退屈しのぎの玩具にすぎなかったのだ。

【和彦】は、【富江】の頭に、ナタを振り下ろす。

【富江】への未練を断ち切るために。そして、一度でも【富江】の誘惑に乗ろうとしてしまった、愚かな自分への怒りも込めて。

【和彦】は、勤め先の工場に【富江】の死体を運び、切り刻む。

そして、川に捨てた。

<続>