さて、【富江】は自ら仕組んだ「ゲーム」に負けたのだろうか?

否、である。

【和彦】と【登美恵】にとって、ゲームの「勝利」は、【富江】を殺すことではない。

【富江】への未練を断ち切り、彼女の存在を人生から締め出すこと。

早い話が、富江に「出ていけ!」と言うことである。

しかし彼らは二人とも、愛する【富江】を自らの手で殺してしまう。

どっちにせよ、「究極の悪」を実行するはめになったのだ。

* * *

逃避行から1ヶ月ほど経ったある夜。

【登美恵】の家にイジメっ子たちが押し掛ける。

【和彦】は、彼女たちを金属バットで容赦なく殴りつける。

愛する者を守るため、暴力に手を染めること。

これもまた、「悪」である。

ほうほうのていで逃げ去っていくイジメっ子たち。

それと入れ替わるようにして、甦った【富江】が、【和彦】の前に姿を現す。

何事もなかったかのように満面の笑みを浮かべ、もう一度やり直そうと誘いかける【富江】。

【和彦】は躊躇う。

【富江】が和彦の潜在的願望の具現化だとすると、こうやって再び【和彦】の前に現れ誘惑するのは、やはり【和彦】の心に、まだ【富江】に対する未練があることの証明である。

また、見方を変えれば、【富江】は最終的に、学生の【登美恵】より、生活力のある【和彦】を選んだとも言える。

皮肉なことに、本来、非現実の存在であるはずの【富江】が、この物語の中では誰よりも冷静で的確な行動をとっている。

しかし立ち尽くす【和彦】を尻目に、【登美恵】はイジメっ子が置き忘れていったボーガンで、あっさり【富江】を射殺してしまう。この時の【登美恵】の様子からは、もはや【富江】に対する未練は残っていないかのように見える。

その後、二人は【富江】の遺体を、【和彦】の勤務先である製氷工場へと運んだ。

そこで【富江】は、氷漬けにされる。

大きな氷の棺に閉じこめられた【富江】の亡骸は、さながら氷中花のような美しさ。

【和彦】と【登美恵】は心奪われた。

ふと、その時。

【富江】が、氷の中で目を覚ます。

【和彦】は氷を叩き割り、【富江】を助け出し。

「カズくん、ありがとう」

口づけを交わす【富江】と【和彦】。

自分の心を弄んだ【富江】は、今まさに、唯一の肉親である父親をも奪おうとしている。

ついに、【登美恵】の怒りに火がついた。

「やめて、お父さん。それ、バケモノだよ!」

「バケモノ」――この言葉が、【富江】の感情に火をつけた。

あれほどまでに愛し合い、信じていた【登美恵】までもが、自分をバケモノ呼ばわりするのか。

かつて【富江】を愛し、そして殺した、あの愚かな人間たちと同様に――。

「許せない――お前は、許さない」

床に転がっていた鉄の器具を手に取り、ゆっくりと【登美恵】に歩み寄る【富江】。

そのあまりの気迫に、【登美恵】は逃げ出す。事実、このシーンにおける安藤希の、人間としての情をすべて捨て去ったかのような表情と声色は、まさに身も凍るほどの恐ろしさである。

だが、今まで自ら暴力を振るうことのなかった【富江】にとって、それは、けっして自らの手を汚さないという、「悪のルール」に背く行為だ。

一見矛盾しているようであるが、しかし先述のとおり、矛盾しているから「間違い」なのではない。

もし富江が「悪のルール」から逃れられないのだとしたら、彼女は言わば「悪の奴隷」であり、束縛された退屈な人生を送ることになる。

富江が求めているのは、快楽なのだ。

そして悪とは、快楽を得るための選択肢の一つにすぎない。

より大きな快楽を得るためなら、ルールを破ることは厭わない。

逆に言えば、究極の悪という「型」を知っているからこそ、「型破り」をすることもできるのだ。

同時に、その行動は、【富江】が「劇を進めるための駒」という役割を超え、自らの意思を持った人間として一人歩きしたことをも意味する。

『富江 最終章』は、規格に則って作られた工業製品ではない。

生身の人間が作った、生きた物語なのである。

もちろん【富江】だって、「悪のルール」を破ってしまえば、より低級な悪へと自分を貶めてしまうことはわかっている。なりふり構わず、自分に課したルールを破るわけではない。

それでも【富江】が、あえて【登美恵】の決闘を受け入れたのは、【登美恵】を自分と対等の存在として認めたということでもある。

馴れ合いや仲良しごっこではない、魂どうしのぶつかり合い。

――それは、まさしく、愛だ。

「究極の悪」を描く物語は、同時に「究極の愛」を描く物語でもある。

<続>