やがて意を決した【登美恵】は、自らもシャベルを持って応戦する。
こうして、二人の決闘が始まった。
「私からは逃げられない――」
「いまさら初恋をやり直すなんて、バカじゃないの! いったい、何しに来たの?」
「あなた、素直じゃないのね――ほんとは私のことが羨ましいんでしょ? 私は綺麗で、死なない。みんなが望んでることなの。あんたはどうなの?卑屈に生きて年を取って醜くなって、誰にも相手にされなくなって、しまいには真っ暗な墓の中よ!」
「うるさい!」
己のコンプレックスを刺激され、逆上した【登美恵】が、渾身の力で振り下ろしたシャベルは、【富江】の左耳を削ぎ落とす。
だが【登美恵】は、自らの行なった暴力への恐怖のあまり、シャベルを放り出して逃げ出してしまった。
迫り来る【富江】。【登美恵】は、【和彦】に助けを求める。
ところが、この期に及んで【和彦】が選んだのは、【富江】だった。
「許してくれ!」
【和彦】は【登美恵】を、冷凍室に閉じ込める。
「ヒャハハハハ! 今度はあんたが氷漬けにされるんだって! おもしろーい」
【富江】の酷薄な高笑いが、夜の工場に響き渡る。
二人は手をつなぎ、その場を立ち去った――。
* * *
ついに「子殺し」という大罪を犯したかのように見えた【和彦】。
しかし、じつは冷凍室の温度を、密かに上げていたのだ。【登美恵】は、ただ気を失っただけだった。
それからしばらく経ったある日。家に一人で暮らす【登美恵】のもとに、一本の無言電話がかかってくる。
【登美恵】は、それが【和彦】からのものであることに気付いた。
【和彦】を許し、【富江】との幸せを祈る【登美恵】。
【登美恵】はもう、孤独ではなかった。
机の引き出しにしまった【富江】の耳は、すでに脈動し、再生を始めている。
【登美恵】は、ふたたび夢見た。自分を裏切ることなく、わがままも言わず、反抗もせず、ただありのままに受け入れてくれる、「本当の友達」を――。
* * *
かくして、【和彦】と【登美恵】の人生は、もう完全に【富江】に支配されてしまった。
今後、二人が【富江】から逃れることはできないだろう。
そして、二人がもう一度同じ屋根の下で暮らすこともないだろう。
彼らは、いったん【富江】を拒絶した。
しかし、そのせいで、かえって【富江】に対する依存が強まってしまったのだ。
最初の殺人は「踏み絵」にすぎない。そのヤマを乗り越え、再び【富江】を愛したとき、彼らは“自らの意志で”【富江】と生きることを選んだということになる。
誰に強制されるわけでもなく、自主性に委ねられることで、その判断は強度を帯びるのだ。他人はおろか、本人でさえ、後にそれを覆すことは容易でない。
他人を意のままに操りたいと考えたとき。暴力や脅迫などによって屈服させるのは、小学生のやり方だ。
相手が気付かないよう、心理的に誘導していくのが【富江】の手口である。
「支配されている」という自覚すらない支配――それは当の本人にとって、”自らの意志で”行動しているのと何も変わらない。
* * *
そして、先述のとおり、この「テクニック」は作品自体の表現方法にも応用されている。
一見しただけでは、こぢんまりとしたアイドル映画という体裁の『富江 最終章』。
わざとらしい恐怖演出がないかわりに、地味な印象を受けてしまうかもしれない。
しかし、それは罠なのだ。
作品全体の甘いテイストで巧妙にデコレートしながら、その奥に込められた毒は、観客が気付かないうちに心を蝕んでいく。
本来なら「悪」というものは、醜く、恐ろしく、不快なものである。エロやグロを売りにするホラー映画は、そういったネガティブなものをストレートに描くことで、「悪」に対する嫌悪感を植え付ける。その意味においてホラー映画は、じつのところ、あらゆるジャンルの中でもっとも「倫理的」とすら言えるのだ。
ところが、『富江 最終章』は、あくまでも甘美である。嫌悪感を煽る要素は皆無に等しい。
それどころか、まるでお伽話のような雰囲気が心地よく、このままいつまでも身を委ねたいとすら思ってしまう。
しかし、それこそが、『富江 最終章』という作品の「毒」である。
同時に、【富江】というキャラクターの本質でもあるのだ。
安藤希の演じる【富江】に心奪われた者は、彼女の悪を「快楽」として受け入れるようになる。
もし彼(女)らの前に【富江】が現れたとしたら、自ら率先して誘惑に乗り、悪に身を落としたいと願うことだろう。
従来のホラー映画が、頑なに、あるいは期せずして続けてきた倫理すら、【富江】は嘲笑う。
古びた価値観や退屈な道徳からの解放。それはいつの世も、人々が心の奥底で求めやまないものだ。
だからこそ『富江 最終章』は、たんなる絵空事にとどまらず。
「現代のフォークロア」たるにふさわしい訴求力を持っているのだ。
* * *
【和彦】と【登美恵】は、“自らの意志で”堕落していった。
それを誘導した【富江】はまぎれもない「悪」だが、かといって、二人を「被害者」と呼ぶことはできない。
彼らは、始めから「そうなること」を望んでいたのだから。
【富江】という「鏡」に映し出されたものは、ほかでもない、彼ら自身の心に巣くうバケモノである。
やがて虚像は実像となり、鏡の前に立つ二人を呑み込んでいった。
しかし、孤独な親子にとって、この悲劇的結末は「救済」でもある。
【富江】が二人の前に姿を現すまで、彼らの家族関係は冷め切っていた。だが、夜の工場で氷漬けになった【富江】を愛でる時、二人は初めて、ほのぼのとした親子愛を見せる。
彼らは、【富江】を仲立ちにして、絆を修復した。
すなわち、【富江】が彼らを救済したのだ。
【富江】は、悪魔である。
しかし【富江】を喚ぶのは、人間の心である。
<了>