伊藤潤二の人気ホラー漫画を実写化した『富江』シリーズは、1999年にスタートして以来、それぞれ別の監督が別の役者を使って制作し、どれもが独立した物語となっていた。2005年に同時上映という形で発表された『富江 THE BEGINNING』と『富江 revenge』は、両者ともシリーズ一作目を担当した及川中が監督を手がけたが、これらとて配役は一新されている。

『富江』シリーズの4作目(テレビ版を含めれば5作目)を監督したのは、『櫻の園』の大ヒットで知られる中原俊。

そのタイトルは、『富江 最終章 ~禁断の果実~』。

『禁断の果実』というサブタイトルからも予想できるとおり、作品のテーマとして《ロリータとレズビアン》という、やや扇情的とも思えるキーワードが掲げられた。

殺されるたびに甦る美少女【富江】と、彼女に翻弄される人々の悲喜劇を描く、このシリーズ。

本作で【富江】に起用されたのは、安藤希。

彫りの深い整った目鼻立ちと、華奢な体つき。大人びたクールな佇まいと、時折見せるあどけなさのアンバランスが、つかみどころのないミステリアスな雰囲気を醸し出す。

従来、「ヴァンプ(誘惑する女)」の役に抜擢されるのは、肉感的でセックス・アピールの強い女優と決まっていた。

たとえば『ヴァンピロス・レスボス』のソリダット・ミランダ、『ヴァンパイア・ラヴァーズ』のイングリッド・ピット、『血に濡れた肉唇』のアニー・ブリランド(後のアニー・ベル)など。

しかし安藤は、後に発表されたセミヌード写真集を見ればわかるとおり、乳も尻もペッタンコな幼児体型。一見すると、ミスキャストであるかのようにも思える。

ところが、そんな“ギョーカイ”の常識に反して、安藤希の演じる「富江」は、なんとも魅惑的だ。

日頃の徹底した生活管理のたまものであろう。無駄な脂肪が完全に削ぎ落とされた、安藤のスレンダーな体型。

人間の脳には、「本来そこにあるはずのもの」がなければ、それを想像で補うという便利な機能がある。

徹底的に排除されたものは、逆説的な形で、強調されるのだ。

もし中途半端に肉づきが良ければ、かえって「生臭さ」が出てしまい、そうはならない。

安藤希のエロスは、「ない」からこそ、美しいのだ。

* * *

それは、作品の演出に関しても同じである。

《ロリータとレズビアン》をテーマに掲げる『富江 最終章』だが、直接的な性描写はいっさいない。

監督の中原俊は、もともとピンク映画の出身で、『猫のように』といったレズビアン・ポルノも残している。『富江 最終章』を「そういうふうに」仕上げようと思えば、いくらでもできたはず。もっとも、人気アイドルの安藤希と宮崎あおいに、「濡れ場」を演じさせるわけにはいかなかった、という事情もあるだろう。

だが、それは作品世界の外側の出来事であって、観客にはなんの関係もない。完成された作品だけを評価すべきなのだ。

もし、『富江 最終章』に「濡れ場」を入れるとしたらどうなるか。

それについて考える前に、物語の中でエロスを表現するということについて、想いを巡らさなければならない。

男を勃たせ女を濡らすために、必要とされるものは何か。

人とは、理性に縛られた動物だ。猿や犬とは違う。

ただ、目の前にハダカがある、というだけでは不十分なのである。

よって、そこに込められた意味が、もっとも重要になってくる。

SEXにいたるまでの経緯。

SEXを行う場のシチュエーション。

相手に対する想い。

そして、躍動する肉から伝わる感触。

つまり、SEXを描くにあたっては、ストーリー上に、それ相応のスペースを割かなくてはならないということだ。

SEXシーンの有無は、作品そのもののコンセプトをも、大きく変えてしまうのである。

『富江 最終章』は、安藤希と宮崎あおいに疑似SEXをさせるための映画ではない。

この作品に二人の濡れ場がないのは、他に描くべきテーマがあるからだ。

それ以外に理由なんて必要だろうか?

たしかに、作品に何を期待しようと観客の自由だけれど、それがエゴにすぎないことも自覚するべきだ。

視野を狭めたせいで、それ以上に価値のあるものを見落としてしまうのは、もったいないことである。

だいいち、エロスを表現したいからといって、必ずしもあからさまにSEXを映す必要はない。

上述のとおり、人の発情を促すのは、ハダカそのものよりも、むしろ場のムードやシチュエーションによるところが大きい。

裏を返すなら、それさえ適切にセッティングしておけば、あとは観客の頭の中で自由に膨らませられるということだ。

エロスにせよ恐怖にせよ作品のメッセージにせよ、肝心な部分は観客の想像力に委ね、それを喚起させるための段取りだけを用意する。

すなわち、観客もまた、作品の一部と化すのである。

そのことによって作品は、たんなる退屈しのぎの娯楽ではなく、観客の精神世界の一部として組み込まれるのだ。

とはいえ、作家の表現力を堪能するというのも、作品を鑑賞する楽しみの一つではある。その意味で、「肝心な部分」を観客に委ねるという手法は、ともすれば作家としての怠慢と捉えられかねない。

しかし、“あえて表現しなかった”ことを、「表現力不足」と決めつけるのは、あまりにも短絡的だ。

作家から一方的に与えられる「表現」を、観客はただ享受するだけという、主体性のない作品鑑賞に対して、何の疑問も抱かないのか。

つまるところそれは、作品をただの「物」として消費しているにすぎない。

自分の頭を使うなんて面倒臭い、手っ取り早く「結論」を与えろと要求するのなら。

たんに観客の側が未熟ということではないか。

作品の前で“マグロ”となって横たわり、「さぁ、俺を満足させてみろ!」と言わんばかり。

そういう人たちは、作家より優位に立っているつもりなのだろうが、けっきょくのところ、作家に依存しているのだということに気づいていない。

オモチャ屋の前でママに駄々をこねる子供と変わらない。

『富江 最終章』は、けっしてそのような人たちに向けて作られた映画ではない。

そもそもこの作品自体が、原作という「結論」を基にしながらも、それに依存することなく、中原監督の解釈によって再構築されたものなのである。

伊藤潤二作品が、他のバッド・テイスト系ホラーと一線を画しているのは、なんといっても、あの繊細な絵柄に尽きる。

とくに、伊藤の描く少女の美しさは、ホラーという枠を越えて、日本漫画界屈指のものであると、私は思う。

だが、そこに気付いてくれる人はなかなかいない。

やれ「奇怪だ」とか「おぞましい」とか「シュール」とか、良くも悪くもそういう表面的な次元でしか語られないのが、伊藤作品の悲しいところだ。

しかし、あえて「あの絵柄」で「そういうもの」を描く。そのギャップこそ、伊藤作品が読者に強烈なインパクトを与える所以なのである。

それなら、伊藤作品の耽美的側面に着目したとしても、なんらおかしくはない。いや、これまで何度も実写化されていながら、そのアイディアが出てこなかったことが不思議なくらいだ。

また【富江】と言えば、世間では《男を狂わせる女》という半ば記号化されたイメージが根強く蔓延っているようだ。実際、それまでの実写版4作品(テレビ版含む)はその固定観念を踏襲していた。

しかし虚心坦懐に原作を読み込むと、『毛髪』に象徴されるとおり、富江は異性のみならず同性をも虜にするバイセクシュアリティを内包していることがわかる。

百合映画の古典的傑作『櫻の園』を世に放った、中原俊監督ならでは着眼点である。

このように、『富江 最終章』はけっして原作の持ち味を否定しているわけではない。

むしろ、その隠れた側面にスポットを当てることで、原作の世界観を崩すことなく拡大することに成功したのだ。

<続>