逃避行から1ヶ月ほど経ったある夜。

登美恵の家にイジメっ子3人組が押し掛ける。

だが、彼女たちを出迎えたのは【登美恵】でなく、【和彦】だった。

3人は【登美恵】の友人を名乗り、【登美恵】との面会を求める。しかし、その中の一人がボーガンを手にしていることから、【和彦】は、彼女たちが【登美恵】に危害を加えようとしていることに気付く。

面会を拒絶され、逆上した3人は、【和彦】に襲いかかった。

が、【和彦】はひるまない。

イジメっ子たちを金属バットでボコボコに殴りつけ、返り討ちにしてしまう。

『富江 最終章』において、直接的な暴力が描かれるシーンは数少ない。

ゆえに、それらの一つ一つが大きなカタルシスをもたらす。

娘を守るために体を張る【和彦】は、とても勇ましい。

彼はまたしても、娘の命を敵から守ったのである。

不器用な【和彦】の【登美恵】への愛を、強く印象づけるエピソードだ。

逃げ去っていくイジメっ子たちと入れ替わるようにして、甦った【富江】が、【和彦】の前に姿を現す。

【富江】は、何事もなかったかのように満面の笑みを浮かべ。

“あの言葉”をもう一度語りかける。

「初恋、やり直しましょう?」

この期に及んでも、まだ【和彦】は躊躇う。

だが、ふいに放たれた矢が、【富江】の首を貫く。

イジメっ子が置き忘れていったボーガンで、【富江】を射殺したのは、【登美恵】だった。

しかし、どうせまた生き返るだろう。

【富江】の生命を“凍結”させる方法はないだろうか――。

【和彦】は、氷中花を造る職人である。

そこで二人は【富江】の遺体を、【和彦】の勤務先である製氷工場に運んで、氷漬けにする。

大きな氷の箱に閉じこめられた美少女。

童顔に幼児体型の安藤希が、時を止められたまま凍結される。

その背徳的な意匠は、これまた耽美を求める者の魂を揺さぶらずにはおれない。

さて、【富江】の衣装の違いについて、お気づきになられただろうか。

【和彦】に殺される前の【富江】は、赤い服を着て現れることが多かったが、生き返ってからふたたび二人のもとに現れたとき、彼女の服の色は、青に変わっている。

生命や情熱を連想させる赤に対し、冷たさや静けさ、そして「死」を象徴する青。

透明な氷と青い衣装の調和によって、【富江】の「死」のイメージが、いっそう強まった。

その光景は、あたかも儀式のようだ。

冷たく張りつめた空気が、画面全体から伝わってくる。

この「氷中花」は、たんなる“ロリコン”の悪趣味ではない。

死への欲動──「死」というもののもつ、抗いがたい甘美な側面を象徴するシーンなのだ。

同時に、それは【富江】というキャラクターの本質でもある。

不死の存在である【富江】には、つねに「死」のイメージがつきまとう。

そして「死」は、「生」の美しさを逆説的に強調する。

人々がすべてをかなぐり捨ててでも【富江】を追い求めるのは、その美貌に、人智を越えた崇高さを見いだすからだ。

【富江】の背後に広がる、冷酷でありながらも神聖な「死」の世界に、人々は心躍らされるのである。

そんなキャラクターを演じるのだから、当然、役者の側にも、せせこましい俗世のレベルを超越できる感性が要求される。

何度殺されても蘇り、人の死すら弄ぶような悪魔など、この世界に存在するはずがない。

したがって役者の側は、そもそも存在しないものを“当てずっぽうで”演じることになる。しかし、そうなるとけっきょく自分の想像力が及ぶ範囲のものしか作り出すことができない。

まして「只今熱演中!」と言わんばかりの押しつけがましい芝居は、つまるところ、キャラクターの本質を、役者自身が知覚できる範囲に矮小化しているにすぎない。

それではいつまで経っても、ただの「演技」に終始するだけだ。架空のキャラクターが、独自の生命を帯びて動き出すことはない。

しかし、安藤希は違う。

安藤の演技には、エゴがない。

個人の卑小な知覚を超え、その奥にある、より大きな存在に身を委ねる。

ある意味、それは「演技」とは呼べないかもしれない。

むしろ、「降霊術」の類と捉えた方が適切だろう。

安藤希は、劇中を通して、完全に【富江】とシンクロしている。

『富江 最終章』という映画の中に顕現したのは、《【富江】を演じる安藤希》ではなく、まさに【富江】自身だ。ルックスだけでなく、その本質をも体現しているのだ。

生活のにおいを感じさせない、安藤希の無機的な佇まいは、まさしく「死」のイメージに直結する。

あたかも、すべての生命を拒絶する極寒の世界が、神々しい美しさを感じさせるように。

安藤希の演じる【富江】は、人心を惑わしながらも、自らを貶めることなく、つねに孤高の存在であり続ける。

 <続>