★★
監督は「J・A・レイザー」となっているけれど、その正体がジャン・ローランだというのは周知の通り。
当初はジェス・フランコが務める予定だったが、突如行方不明になってしまったため、ローランにお鉢が回ってきたというのも、有名な話だ。ちなみに、フランコが監督した『バージン・ゾンビ』という作品に後からゾンビの登場シーンが追加された際、その部分の監督を手がけたのもローランである。
『ナチス・ゾンビ』と『バージン・ゾンビ』。この2本のゾンビ映画を観れば、なぜジャン・ローランが、ゾンビ映画愛好者たちから蛇蝎のごとく嫌われているのか、よくわかる。
まず、肝心のゾンビがショボい。ただ顔に緑色のペイントを施しただけなのである。しかも、首から下は素肌のまま。いちおう傷跡も貼り付けてあるが、アップになると剥がれそうになっているのがわかる。
そんなわけだから、『ナチス・ゾンビ』はちっとも怖くない。
村人たちに殺され、湖に捨てられたナチスの兵隊たちが、ゾンビとなって甦り、復讐するというストーリー。だが、湖で泳ぐ全裸の少女たちに襲いかかるゾンビたちの姿は、中途半端なメイクのせいで、ただの痴漢にしか見えない。そんな彼らが湖からワサワサと姿を現すシーンも、失笑モノの間抜けさだ。
ナチスが出てくるので、いちおう戦争の回想シーンもある。しかし、音だけはそれなりに豪華なのだが、貧弱な爆発と凡庸なカメラ・ワークのせいで、緊迫感がまるでない。
また、ローランの作家性として、センチメンタルな描写を挿入しているのも、強面のホラー映画ファンたちから不評を買う要因である。
村に駐留していたナチス隊員の一人が、村の若い女と恋に落ちる。二人の間には娘が生まれたが、先述のとおりナチス隊員は殺され、女もなぜだかわからないが死んでしまう。
やがて時代は変わり、皆殺しにされたナチス隊員たちはゾンビとなって甦って、村人たちを襲う。
だが、その男だけは、娘に対する愛を失っていなかった。彼はこっそり娘に会い、妻の形見のペンダントをプレゼントする。
その上、他のゾンビたちが人々を襲っている間、あろうことか、親子で仲良く散歩しているのだ!(あぁ、もう、この画だけで★★★★★あげたい衝動に駆られる!)
ゾンビたちの横暴を食い止めるため少女が意を決して父親を裏切るエンディングも、なんだかジュブナイルのようで、素朴な味わいがある。
あえてカテゴリーを設けるなら、『ナチス・ゾンビ』は「癒し系ゾンビ映画」なのだ。こんなヘンテコな代物、映画史上には後にも先にも登場していないけれど……。
いくらゾンビ映画のマニアたちから酷評されようとも、私は『ナチス・ゾンビ』みたいな作品があったって、まったく構わないと思う。ゾンビが出てくる映画だからといって、すべからく「恐怖」を追求しなくてはならない、ということはないはずだ。たとえば『ゲゲゲの鬼太郎』だって妖怪がいっぱい出てくるけど、あれを「ホラー漫画」として読む人はいないであろう。
が、やはりお世辞にも誉められた出来の映画でないことは確か。なにせ、物語の鍵を握る少女が登場するのは、映画が始まって50分くらい経ってからなのである。
そのせいで、せっかくの感動的なラスト・シーンも、取ってつけたような感が残ってしまい、残念だ。彼女と、ゾンビ化した父親の交流を主軸に据えれば、散漫な印象も免れたのではないか。
ところで『ナチス・ゾンビ』では、ジェス・フランコの代表作『吸血処女イレーナ』のメロウなオープニング・テーマが、要所で流用されている。使い廻しと言われればそれまでだけれど、ローランもフランコも両方大好きな僕にとっては嬉しい計らいであった。