夕暮れの公園で、【富江】と【登美恵】が草むらに寝そべり、柘榴の実を食べるシーンは、『富江 最終章』のハイライトの一つである。

「柘榴って、人間の味がするんだって」

――いつまでも耳から離れない、この印象的な台詞の「元ネタ」は、日本古来から伝わる、鬼子母神の物語だ。

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鬼子母神伝説の起源は、古代インドまでさかのぼる。

鬼子母神は、釈迦の唱えた『法華経』という経の中に登場する女神である。

ちなみに、「鬼子母神」というネーミングは、サンスクリット語の「ハーリティー」を漢字に訳したもの。音訳した場合は「訶梨帝(かりてい)」と書く。他にも、「歓喜母(かんぎも)」、「愛子母(あいしも)」、「九子魔母(きゅうしまぼ)」、「青色鬼(しょうしきき)」、「青衣鬼(しょうえき)」など、様々な名前で呼ばれている。

鬼子母神は、鬼神【般闍迦(パーンチカ)】の妻であり、また自らも鬼であった。

二柱の間には500人もの子供がいたのだが(一説には千人とも一万人とも言われる)、その大勢の子供たちを養うために、彼女は近隣に住む人間の子供をさらって食べていたのである。

恐れおののいた人々は、釈迦に相談する。そこで釈迦は、鬼子母神がもっとも可愛がっていた一番下の子供を、神通力によって隠してしまった。

必死になって世界中を探し回る鬼子母神であったが、けっきょく見つからず、しまいには釈迦の下にすがりつく。

悲嘆に暮れる彼女を、釈迦はこう諭した。

「お前には500人も子供がいるというのに、そのうちの1人がいなくなったというだけで、これほどまでに嘆き悲しんでいる。それならば、たった数人しかいない子供をお前に奪われた、人間の親の苦しみはどれほど大きなものであっただろう」

そして釈迦は、鬼子母神に子供を返す。

これを機に鬼子母神は改心し、仏教に帰依した。以降、安産と子育てを司る神となる。

ちなみに、改心したことで鬼ではなくなったことから、鬼子母神の「鬼」は、鬼の「角」にあたる一画目の点を取った文字を使う。

鬼子母神の像は、天女と鬼女の2パターンある。

前者は、懐に子供を抱き、そして右手に柘榴を持つ。

なぜ柘榴なのか。

一説には、釈迦が改心した鬼子母神に柘榴を与え、「もしまた子供が食べたくなったら、これを代わりに食べなさい」と言ったとされている。

このことから、「柘榴は人間の肉の味がする」、そして「鬼子母神はやはり人肉の味が忘れられず、柘榴を食べているのだ」という噂が生じた。

だが、この件はどうも疑わしい。

元来、多くの実と種を内包する柘榴は、古来より子孫繁栄の象徴とされてきた。

「柘榴≒人肉」という説は、女神が人間の子供を喰らうというグロテスクな話を面白おかしく伝えるため、後世の人たちが脚色したものであるらしい。

しかし、いずれにせよ、伝説というものは、人々の間に広まるにつれ、勝手に一人歩きしてしまうのだ。

したがって、オリジナルの部分だけでなく、それに付け加えられた“尾ひれ”まで見渡さなければ、伝説を語り継ぐことにはならないのである。

かくして、古来から伝わる神話と、現代の怪奇映画が、「柘榴」というアイテムによって繋がった。

その意味で『富江 最終章』は、古代日本神話の系譜に連なる作品と位置づけることができる。

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だが、鬼子母神神話と『富江 最終章』を結ぶ糸は、それだけではない。

物語の基幹をなすテーマでも共通しているのだ、

そのテーマとは「母性」。そして、その暗黒面である。

橋本家では、母親と死別してからというもの、一人娘の【登美恵】が母親代わりを務めてきた。

食事を作るのは【登美恵】。

【富江】を殺したショックでひきこもりになってしまった父【和彦】に、弁当を買い与えるのも【登美恵】の役目だ。

また、【和彦】も【和彦】で、再びやってきた【富江】を【登美恵】が射殺した後、「どうしよう、もう殺したくないよ……」とつぶやく様は、駄々っ子のようであり、父親としての威厳がまるで感じられない。

【登美恵】には、母親になりたいという願望があったのではないだろうか。

夫である【和彦】でさえ見向きもしなくなった仏壇に、【登美恵】は毎朝、線香をそなえ、手を合わせる。

ちなみに、これを【和彦】が行っていると誤解した【富江】は「奥さんの仏壇、あんなに綺麗にして!」と憎まれ口を叩く。やがて仏壇は、【富江】に唆された【和彦】の手によって、庭で燃やされてしまう。

首だけの姿になった【富江】と、そんな彼女を廃屋で育てる【登美恵】の姿は、まるで赤ん坊と母親のようだ。

しかし、気位の高い【富江】は、【登美恵】の愛情を素直に受けようとしない。【富江】の容態を気遣い、赤ん坊用の離乳食を食べさせる【登美恵】に対し、「赤ん坊じゃないのよ」と悪態をつく。

やがて【登美恵】は、【富江】を連れて東京に出る。

だが、学生の【登美恵】に人一人を養えるほどの経済力があるはずもなかった。

そんな行き当たりばったりの行動を、【富江】は容赦なくなじる。

「友達だって。ばかじゃない? オママゴトしてただけじゃない」

しょせん【登美恵】は、ただの女の子にすぎなかった。

いくら背伸びしてみたところで、「母親」にはなれなかったのである。

【登美恵】のナイーブな善意は、立ちはだかる現実の前に、あっさりと否定されてしまった。

こうした出来事によって、【登美恵】の中にある良心は屈折し、やがて歪んだ形となって表れる。

母性のもつ暗黒面――「支配欲」である。

そもそも【登美恵】は、ただ優しいだけの少女ではない。【富江】が初めて橋本家にやってきた日、【和彦】を【ジャマだから】といって追い出す件は、【登美恵】の邪悪な一面を象徴している。

そんな【彼女】が自らの心の闇に飲み込まれてしまうのは、けっして故なきことではなかった。

【登美恵】にかぎらず『富江 最終章』に登場するキャラクターは、二面性を兼ね備えている。

ロマンチックに愛を囁いたかと思えば、残酷きわまりない悪戯を仕掛ける【富江】(そう、彼女にとって、愛する者の死すら「悪戯」にすぎない)。

普段の情けないダメオヤジっぷりから一転して、凶悪なイジメっ子たちから勇敢に娘を守る【和彦】。

――こうした一筋縄ではいかない人物描写が、キャラクターをたんなる「記号」として処理することなく、生々しい存在感を与えているのだ。

ラスト・シーン、【登美恵】は、切り落とした【富江】の左耳が再生していく様を満足そうに見つめながら、【富江】を「本当の友達」に育てることを誓う。

しかし、そんな【登美恵】の恍惚とした表情からは、【富江】を独立した人間として認め、その意思を尊重していこうという態度が、まるで伺えない。

じつのところ、【登美恵】が求めるものは「本当の友達」ではなかった。

自分に逆らわず、ただ欲求を満たすだけの存在――すなわち奴隷である。

* * *

やはり【富江】は、本物の悪魔であった。

「本物の悪魔」とは何か。

それは《悪魔を創り出す存在》である。

人間なら誰しもが内包する、心の暗黒面を増幅させ、おぞましいバケモノに変えてしまうのだ。

皮肉なことに、ラスト・シーンにおける【登美恵】の姿は、それまででもっとも美しく、活き活きと輝いている。

髪型にせよ服装にせよ、すっかり垢抜けて、学校でイジメられていたころの面影は、まったくない。

なぜなら、今の【登美恵】には、悩みも迷いもないからだ。

しかし、それは彼女の心から闇が消えた、というわけではない。

じつはその逆で、彼女は自身の内側に巣食う悪魔と、完全に同化してしまったのである。

自ら悪魔となってしまえば、もう闇を恐れる必要はない。

その意味で、彼女にとって、この結末は「救済」であったとも言える。

一見すると、【富江】を支配したかのように見える【登美恵】。

だが実際は、すっかり【富江】に取り憑かれているのだ。

不快な外界から逃がれ(真昼間に家にいることからして、学校にも行っていない様子だ)、家に一人閉じこもる【登美恵】にとって、もはや【富江】なしに生きていくことは不可能だろう。

「一生付きまとってやるから、覚悟しな」――。

【登美恵】が【富江】を棄てた、あの夜。

【富江】が吐いた捨て台詞は、かくして現実のものとなった。