★★

ゼロ年代「百合ブーム」の嚆矢となった、今野緒雪原作のライトノベル・シリーズの第1巻を実写映画化。

あらためて説明すると、「百合」とは女性同士の恋愛をテーマにしたマンガなどのフィクション作品のことで、「ガールズ・ラブ(GL)」とも呼ばれる。男性同士の恋愛を描く「ボーイズ・ラブ(BL)」と対にして用いられる言葉だが、今回の実写版『マリみて』の監督は、過去にそのものズバリ『BOYS LOVE』という映画を手がけた寺内康太郎。ちなみに、制作会社は実写百合映画の佳作『GL ~小悪魔たちの誘惑~』を世に送り出したジョリー・ロジャーだ。

さて私自身は、基本的に《原作と映画は別物》というスタンスを取っている。とはいえ、この映画は《原作の設定を元に監督独自の世界観を構築する》といった類の作品(例:『富江』シリーズ)ではなく、また個人的にも原作への思い入れが強すぎ、先入観を排して鑑賞するのは不可能であるため、今回は趣向を変えて原作との比較を重点に論じてみたい。

まずアニメ版にしてもそうだったが、この実写映画版においても舞台となる「お嬢様学校」の皮相なイメージをなぞるばかりで、原作の持ち味であるコミカルな語り口を活かせていない。

その上、晴れて「スール」となった【祐巳】と【祥子】が焚き火を囲みながら『マリア様の心』に乗せてワルツを踊るという、いかにも“映画映え”しそうなラスト・シーンをカットしたせいで、作劇上のクライマックスと呼べる場面もないまま緩慢に幕を閉じる。

初めて「薔薇の館」を訪れた【祐巳】が【祥子】と【蓉子】の口論に圧倒されるシーケンスで、【祐巳】が【聖】から「百面相していたわよ」とからかわれる件もカットされている。【祐巳】役の未来穂香は豊かな表情が原作のイメージぴったりなだけに、ぜひ挑戦してほしかった。

ちなみに【祐巳】がクラスメイトたちから【祥子】との関係を問い詰められて泣き出すシーケンスでは、実際に涙を流しておらず、ただの“泣き真似”でお茶を濁している。せめて目薬くらい使えばいいと思うが、ようはこのような演技を良しとするほど“ゆるい”現場だったということだろう。

一方、【祥子】役の波瑠は、どう見ても一般の生徒たちと変わらず、上流階級に生きる女としてのオーラ、そしてその気位の高さからくる威圧感がまるで伝わってこない。だから【祐巳】たち下級生が、たかだか“一個上”の【祥子】に怖じ気付く様に説得力が生まれないのである。名台詞「お姉さま方の意地悪!」も、気の抜けた棒読み口調に興醒めだ(もし5年早く実写化が決定していたら栗山千明がハマり役だっただろう)。

そこをいくと、原作屈指の人気キャラクター【聖】を演じた滝沢カレンは、原作の設定に準拠した西洋的な目鼻立ちとサバサバした中性的な口調がハマり役。

ただ、原作に較べて出番が圧倒的に削られた。特に、【祥子】に対して物語の肝となる“賭け”を挑むという重要な場面の台詞や、【祐巳】に【祥子】の複雑な家庭環境を説明する役割が、どういうわけか【蓉子】に振り分けられてしまい、ただの「脇役」に終始している。なお「黄薔薇ファミリー(【江梨子】と【令】と【由乃】)」の出番がほとんどないのは原作どおりである。

また、原作において【聖】がレズビアンであることをほのめかしていた台詞もカットされており、結果として作品の最大のセールス・ポイントである「百合」のテイストも薄まってしまった。一方で【祥子】のフィアンセである【優】がゲイであることにはきちんと触れられている。

以上の事柄を総合すると、この実写映画版はアニメ版と同様の失敗作のように思えるが、それでも評価すべき点はある。

所々に、「リリアン女学園」が位置する町の(わりとゴミゴミとした)全景を俯瞰するショットが挿入される。世界観を「リリアン女学園」だけに完結せず、外界との接点を印象づけることで、作品のスケール感を拡大することに貢献しているのだ。

ちなみに、この《日常と非日常の適度な距離感》は、原作を論じる上でも見過ごされがちで、且つ最も重要なポイントである。