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Xがいわゆる「ヴィジュアル系」の先駆者とされているのは、その奇抜なファッションや音楽性が後続バンドに多大な影響を及ぼしただけでなく、彼ら自身の手で新人を発掘・育成してきたという実績にある。
リーダーのYOSHIKIが社長を務めたインディー・レーベル「エクスタシー・レコード」からは、LUNA SEA、LADIES ROOM、東京ヤンキース、YOUTHQUAKE、GLAYなど後にシーンの顔役となるバンドが頭角を現していった。
そんなエクスタシー・レコード所属バンドの中で、もっとも期待されていたのがZI:KILLだった。
YOSHIKIは彼らの1stアルバム『真世界』をリリースするにあたり、ZI:KILLのためだけのサブ・レーベル「ゴースト・ディスク」を設立している。やがてZI:KILLはメジャー・デビューし、Xは海外進出のために「X JAPAN」と改名するが、バンドを取り巻く環境が変化しても両者の親交は続いていく。
Xが「X JAPAN」になった翌年の1993年、『Seth et Holth(セス・エ・ホルス)』 というビデオが発売された。X JAPANのギタリストHIDEと、ZI:KILLのシンガーTUSKによるコラボレーション作品だ。
HIDEとTUSKの二人を主演に据えた映画仕立てとなっており、ややホラー色、BL色もある幻想的な世界観を繰り広げる。
BGMも、本作のために二人が新たに書き下ろした。作詞とボーカルをTUSKが、作曲と演奏(プログラミング)をHIDEが担当している。通常、こうした作品の場合はサウンドトラックをアルバムとして別に発売するものだが、『Seth et Holth』ではあえてそういうことをやっていない。あくまでも、映像と音楽で一セットというわけだ。
時空を超越した世界「ヌーム」で暮らす【セス】と【ホルス】の二人が主人公。【セス】をHIDEが、【ホルス】をTUSKが、それぞれ演じる。
「ヌーム」を支配するのは、【アトゥム】と呼ばれる神。十字架の形をした巨体の中心に、大きな一つの眼を有する、奇怪な生命体だ。
「ヌーム」では、眼が生命の根源であるとされている。【セス】と【ホルス】にとっては、眼球を舐めることが、人間でいうところのSEXに相当する。
互いの眼や顔を舐めあいながら抱擁を交わす、HIDEとTUSKの姿がじつにエロティックだ。同性愛を思わせる描写でもあるけれど、元よりこの世界には「性別」という概念自体が存在しないのかもしれない。
ところがある日、【ホルス】は【セス】との愛撫の最中に、彼の眼を傷つけてしまう。二人は【ホルス】の眼を治す手段を求めるため、【アトゥム】によって人間界へと送り出される。
しかし二人にとって、それはあまりにも過酷な試練であった。なにせ異界人である彼らは、人間と言葉が通じない。否、そもそも彼らには「言葉」という概念そのものがない。
では、どうやってコミュニケーションを図るのかというと、声ではなく、血によって意志の伝達を行なうのである。
会話をするとき、二人はかならず身体のどこかから血を流している。互いの血を触りあうことで、テレパシーを送受信するという仕組みになっているらしい。いかにもヴィジュアル系の人が好む退廃的な設定であるが、感染症のおそれがあるし、そのうち貧血を起こして倒れてしまうんじゃないかと心配になってしまう。
それでも二人の間で血の流しっこをしてるぶんには、まだいい。しかし、人間と会話するときにも、相手を傷つけて流血させなければならない。図らずも人間に危害を加える存在となってしまった二人は、やがて「魔物」と呼ばれ、迫害される。
人間社会から孤立した者の絶望をテーマにした悲劇――そういうものを表現したいというのは、よくわかる。HIDEとTUSKの頭脳の中では、さぞかし壮絶な物語が広がっていたことだろう。
とはいえ二人は言うまでもなく、演技に関してはズブの素人だ。その点で、テレパシーによって会話するというアイディアは台詞を喋るという負担をなくすことができ、理に適っているという見方もできる。
が、ラストでHIDEが「やめろー!」と絶叫するシーンがあるけれど、貧弱な発声に興ざめする。後年、hideと改名したソロ活動においては、ギタリストとしてだけでなくシンガーとしての実力も高く評価されたが、歌と演技とでは発声の仕方が異なるということだろう。あと、おでこにしわが寄るのもサルみたいで、綺麗なお顔が台無しだ。
また時代的にCG技術が発展途上であったから仕方がないとはいえ、二人の背景となる「ヌーム」の貧乏臭さは厳しい。ところどころに登場する三葉虫のような生き物も、見るからにプラスチック製のおもちゃで、悪い冗談のようにすら思えてしまう。同じ映像をループさせるといった、実験映画的な演出もかえって間抜けな印象を強めるばかりだ。
とはいえBGMだけを取り出して聴けば、民族音楽風のパーカッシブなリズムや、当時流行していたインダストリアル・メタル(ちょうど前年にリリースされたミニストリー『詩篇69』を明らかに意識している)を取り入れるなど、YOSHIKI主導のX以上にHIDEの趣向が押し出されていて興味深い。
一方、TUSKが歌い上げるゴシック風バラードの気色悪さにも、今日の洗練された「V系」が失ってしまった、この時代ならではのデモーニッシュな魅力を感じ取れる。
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ところで、私は『Seth et Holth』とリアルタイムで接している。当時、中学生だった私はファンクラブに入るほどの熱狂的なXファンで(ちなみにZI:KILLは後追い)、この作品も期待して観た。内容はほとんど忘れてしまったのに、ひどく退屈したことだけは覚えている。5,500円(税込)は子供の小遣いからすると大金で、それだけに落胆も大きかった。以来、一度観たきりで物置部屋の奥にしまったままだった。
その後、周知のとおりhideが不慮の死を遂げてから10年以上経った、ある日のこと。当時人気のあった女性シンガーが、hideの代表曲をカバーするという話題が出たのをきっかけに、あらためて動画サイトでPVを観た。
驚いた。楽曲、歌詞、声、サウンド、ファッションのいずれも、まったく古びていないどころか、今日発表されたばかりの「新作」だと言われても、あっさり信じてしまいそうなほどビビッドな瑞々しさに溢れている。
HIDE(hide)に映像のセンスが皆無ということはありえないはずだ。となれば『Seth et Holth』が、まさに「黒歴史」としか言いようのない出来となってしまった原因は何か?
監督を務めた亀山哲哉の本職は、ヘアメイク・アーティスト。HIDEの写真集『無言激』におけるヘアメイクも、彼が手がけている。カメラマンとしても活動していたようだが、映像作品を手がけるのは、おそらく本作が初めて。
また脚本は、ヴィジュアル系御用達の音楽雑誌『フールズメイト』の編集長、羽積秀明が担当した。音楽ライターとしてはベテランでも、映画の脚本に関しては素人のはず。
どうしてプロの映画監督や脚本家を雇わなかったのだろう? 身内を使って安く済ませているという印象を免れない。
ちなみに「友情出演」としてクレジットされている大島暁美は、これまた『フールズメイト』や『SHOXX』に寄稿していたヴィジュアル系御用達のライターで、HIDEやTUSKとはプライベートでも親交のあった人物だ。
このような人選を見るにつけ、『Seth et Holth』の制作が内輪ノリの域を出られなかったのは必然と言えよう。いくら才能のある人でも、それを引き出してくれるプロのスタッフに恵まれなければ、脳内の妄想を不特定多数の観賞に堪えうる「作品」に昇華することは不可能であるからだ。
(2017年1月3日 加筆修正)